もう開けないお茶会。高3の雨の日、私たちは梅雨の終わりを拒んだ

「来年は一緒にいられないんだね」薄暗い居室の片隅で、友人2人とわんわん泣く。そんな高校3年生の、雨が降り注ぐ梅雨の思い出。
暑い。蒸し暑い。なのにそんな暑さを感じさせないくらい外は暗い。
しばらく太陽の姿を目にしていない気がする。「夏」と「太陽」は一緒にいるべきではないのか。この時期の夏の相棒は「雨」と「雨雲」にすり替わっている。
こいつらが相棒になった夏は「梅雨」と呼ばれるらしい。梅の雨と書いて梅雨。文字だけを見ると可愛らしいけれど、この時期はどうも居心地が悪い。ベタつく空気と暗い教室。何よりやる気を削がれるようなだるさがあって、私はこの季節が大嫌いだった。
そんな梅雨にも、私には唯一大好きだった時間がある。それは、私と友人2人で開く「秘密のお茶会」。
会場は、梅雨の空気にどっぷり浸かった、薄暗い3年3組の教室。開催時刻は16時、BGMは、しとしと、ザーザーという雨の音。そんな雰囲気の中、机の上にお菓子を並べ、それを3人で囲みながらコソコソとどうでもいい話をする。
お茶会の時間は、授業の疲れや、高校生特有の人間関係の悩みを吹き飛ばす不思議な力があって、このときだけは梅雨が好きになれた。
毎年、梅雨の時期はこんなふうにお茶会を開催していた。1年生の頃「雨の中帰りたくないね」「そしたら雨が止むまでお話しようよ」という何気ない会話から始まったこの集まり。
2年生の梅雨も「去年こんなふうに過ごしたね」と言いながら、3人でお茶会を開いた。それが3年生になっても、変わらずに行われる。この当たり前が、とても幸せだった。
ただ、今年の私たちは、去年までと異なる点が2つある。それは「受験生」という肩書きを各々が背負っているという事実。そして、この当たり前のように開かれている時間は、来年にはない。今年で最後という、逃れられない現実。
頭の中ではわかっている。だけど、どうしても現実から目を背けたくて、お茶会の時間だけはとにかく笑って、気丈を装った。
連日降り続く雨の中でも、特に激しく降り注ぐ、とある日の放課後。いつも通り3人でお決まりの教室に集まるのだが……。いつもニコニコと笑っている1人の友人が、浮かない表情を浮かべ、机を見つめている。
「どうした?なんか嫌なことあった?」私ともう1人の友人とで、肩をさすりながら声をかける。
「実はね、受かったの。看護学校の受験」。と、落ち込む友人は消え入りそうな声でぽろっと呟いた。
彼氏にでも振られたのかと思ったのだが、そうではないことに安堵する。そして「よかったじゃん〜!おめでとう!」と、お祝いの声をかける私たち。だけど、その友人の顔ピクリとも笑わなくて。それどころか、急にぽろぽろと涙を流し始めた。
えんえんと声を出して泣きながら、友人は言う。「受験が終わったら、今年で卒業っていう実感が湧いてきて。そしたら2人ともお別れだって、それしか考えられなくなっちゃった」。と。
その瞬間私たちにも「来年からは一緒にいれない」という、目を背けていた現実が津波のように押し寄せ、心を厚い雨雲が覆う。
わかっていた。この時間があと少ししかないことも、卒業したら3人揃うことは、なかなか叶わないことも。その現実を受験という課題で壁を作り、見えないふりをしていた。だが、その現実を目の前に突きつけられたら、もう、負の感情を我慢できない。
私ともう1人の友人の目からも涙が溢れて、溢れ出る水は止められなかった。「泣かないでよ〜!卒業してもきっと会えるよ!」3人でぎゅうぎゅうと抱き合って、その日はわんわん泣いた。
窓の外で激しく降り注ぐ大雨。そんな雨粒よりも激しい涙が、わたしたちの目から降り注いでいた。
梅雨は嫌い。だけどこの時間を止めてくれるのなら、梅雨の蒸し暑さでも、だるさでも、何だって我慢するから。どうかこの時間だけは、終わらせないで——————。そう願った、高校最後の尊い梅雨。
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