一度だけ触れた異性の手。私にとっての「会いたい」の意味を考える

「一緒にいる」というのは、どういう意味なのだろう。
純粋にただ、本当に一緒にいるという意味なのだとすると、何も話さなくても、身体に触れなくたっていい。ほどよい距離感で、近くても遠くても相手をひたすら思う気持ちって、どんなものなのだろう。
会って一緒にいる。それでも、心がすれ違うときはあるのかもしれない。
異性の身体に触れたことはない私にだって「会いたい人」はいる。
いや、正式には異性の心にも触れたことはない。一度だけ、一瞬だけ手には触れたことはあるけれど、それが「触れた」とか「一緒にいた時間」だったとは明言しにくいのだ。
なんだかその場の指示に従った事務的なコミュニケーションだったせいか、今となっては触れたことになるのかはまったくわからない。
でも、その人の手は一瞬だったけれど、私の手とは違ってあたたかかった。過去にどこかで会ったような、ずっと会いたかったような感じ。ずっと想っていた人というよりも、どちらかというと家族のような、母のようなあたたかみを私は感じ取っていた。
ちょうど、16歳になる春の、ほんの一瞬のことではあったが、このあたたかみに、私はどうしてもまた会いたい、触れたい、繋がっていたいと思った。たとえ、心の距離が遠くても、いつか必ず通じ合えるような気がしたのだった。
そのころはまだ10代だった私にとって、こうした「会いたい」と素直に思う気持ちはごく普通の現象であった。だが、20代前半となった今、「会いたい、一緒にいたい」という気持ちに素直に向き合うというのが、難しいことと感じるようになってしまった。
そもそも男性と女性が思う「会いたい」の意味は、同じもののようで違う意味を示しているものだと、私は考えている。
最近になってSNSを開くと、「男が言う『今度はいつ会える?』というのは『いつやれる?』のことだから」だなんていう呟きを目にすることがあった。ええ、本当にそうなの?というよりは、なぜか強く納得してしまう自分がいて、私は思わずぞっとした。
これは、生きる世界が近いとか遠いとかを通りこして、今まで私がごくシンプルに抱いてきた「会いたい、ただ一緒にいたい」という夢が、ダムが決壊したように崩れ去っていくような感覚だった。
では、逆に女性はどうなのだろうか?と、そんな感覚に陥っている隙に考えたが、変わらずシンプルに「辛いときも悲しいときも、嬉しいときも、何の理由がなくても、ただ隣にいてほしい、いたい」と思うことこそが、「会いたい」だと、自分のなかで答えはすぐに見つかった。
たとえ、想いを寄せる人が大きな夢を抱いて突っ走っていたとしても、「好きな人の夢は、自分の夢」なのだと思いたいし、私は思いたかった。
だけれど、なんとなくそう思えば思うほど、なぜか寂しくなる。シンプルな気持ちのままでいたいのに、複雑な感情が絡み合ってしまう。それも情けないほど、小さいものなのだ。もちろん、お金持ちで、地位もあるから好きになるわけではない。逆に、遠くに行ってしまうような夢が叶ったとしたならば、もう私はその人に手が届かないじゃないか。
忘れられない想い人は、いつだって遠くにいる。
こう綴ると、なんだかかっこよく映るかもしれないが、しつこいくらいの切なさがにじみ出ていて、実際には美しさなんて持ち合わせていない。
それでも私は、また恋をするのだろう、と思う。だが、異性の身体と心に触れることはできないし、触れたいとは思えない。今の自分にはこわくて、贅沢な時間過ぎるから。
もし、好きな人の夢を自分の夢として追うことができる日が来た時、ようやく私は心の底から素直に「会いたい」と感じるのかもしれない。
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