公園で朝を待った日。いつもと同じはずの深夜に初めての感覚を抱いた

5年前、クラブに通うことに明け暮れていた時期があった。
大学3年生の春休み、当時荻窪に住んでいた友人Aの家に居座り、ほぼ毎晩のように2人で終電で新宿に向かった。普段からお酒を飲まない私とAは受付でもらったドリンクチケットをそれぞれコーラとジンジャーエールに交換して、その後はフロアを見渡せる少し高い台の上にずっといた。
踊りたい時に踊って、喉が渇いたらコーラを飲んで、音楽に負けないくらいの声量で話して、それでも聞き取れなくて聞き返して、笑って。洋楽やEDMなんてろくに知らないのになにが楽しかったのか、なにが私たちを突き動かしていたのか、正直今となってはわからない。
でも私たちは相談することもなく、当たり前のように終電に合わせて家を出て、始発に合わせてクラブを出て、家に着いたら気が済むまで寝て、夕方に起きたらご飯を食べて銭湯に行って、そしてまた終電の頃に新宿に繰り出していた。
そんな日々を過ごしていた最中、私たちの共通の友人Bが誕生日を迎えたということで3人でクラブへ赴いたことがある。
「この子今日誕生日なんです」
毎晩のように通っている中で顔馴染みになっていたクラブの常連たちに紹介すると、皆が気前よく初対面のその子にお祝いのお酒を奢った。一切人見知りしないほどコミュニケーション能力が高いBは「ありがとうございます!」とガバガバお酒を仰ぐ。
それでも飲み足りなかったのか、「もうちょっと飲んでくるわ!」と人混みに消えていった。Bのそういう逞しさを熟知していた私たちは特に気にすることなく見送り、いつも通り「台」の上でいつも通り楽しんでいた。
1時間くらい経った頃だろうか、「もう疲れたから帰りたい」とヘロヘロのBが戻ってきて、私たちは初めて始発を待たずにタクシーで荻窪の友人の家に向かった。Bはよほど疲れていたのか化粧も落とさずに速攻寝て、反対に私たちは全く眠くなく、仕方なく2人で近所の公園まで散歩に行くことにした。
深夜3時、朝というにはまだ早く、薄暗い外は奇妙なくらい静かだった。クラブで爆音の音楽を聴いていたせいで、耳が困惑していたのかもしれない。自動販売機で買ったりんごジュースを片手に、2人で公園のブランコに腰掛ける。この時間はいつも一緒にいるはずなのに、なぜか初めて深夜を共にしているような、不思議な感覚があった。
「楽しかったね」
「Bって初めての場所でもすぐ溶け込めてすごいよね」
「結構酔っ払ってたし、今頃家で吐いてたりして」
「えーやだやめてよ」
取り止めもない会話しかしなかった。脳はほとんど使っていなかったと思う。ただ口をついて出た言葉どうしで会話をしていた。クラブの中ではどれだけ大声で話しても聞き取れないことばかりなのに、公園の奇妙な静寂の中ではポツリと呟いた言葉ですら丸裸だった。
それなのに、相手を、他人を、社会を、世界を気遣わずに、今ならどれだけおかしな事を言っても許されるような、そんな変な気さえした。携帯を見るわけでもなく、公園の遊具で遊ぶわけでもなく、優しくブランコに揺られながら2人でただ話していた。
内容は覚えていない。明日には覚えていないだろうな、と頭の片隅でボーッと考えたことだけは覚えている。そんなどうでもいい話をずっとして、そしてなぜか2人で朝を待った。家はすぐそこなのに、いつでも帰れるのに。それでもなぜか示し合わせるでもなく、いつものように朝を待った。私たちが家に帰るタイミングはいつだって朝だった。
2ヶ月間ほぼ毎晩通ったクラブ。景色も、匂いも、音楽も、雰囲気も、出来事も、今でも鮮明に思い出すことができる。けれど、クラブで迎える朝よりも、消え入りそうに曖昧なあの公園で待った朝の方が心に焼きついて離れない。
Aとは今でも大の仲良しだ。もうクラブに行く気力も、朝まで遊ぶ元気もない2人だが、当時の事は度々話に上がる。
「なんであんなに元気だったんだろうね」
「狂ったように遊んでたもんね」
「もはや同棲してたよね」
そして2人で笑うのだ。
「公園で朝まで話したことあったよね」
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