不足していることと不便なことは必ずしも一致しているとは限らない。

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大学の4年間を東京で過ごした。徒歩圏内にコンビニがあり、飲食店があり、駅があり、10分に1本バスがあり、電車で15分離れた駅に行けば好きなブランドの服が買えた。SNSで話題の商品のすぐそばに住んでいた。十分に足りている4年間だった。

就職して田舎に引っ越した。徒歩圏内に店はなく、かろうじて虫のたまり場となった自販機が2つあるだけだった。駅までは急な坂を上って20分かかるしバスは1時間に2本になった。車で行ける範囲にあるのは24時間営業ではないコンビニと、ファストフード店とファミレスと品ぞろえの悪いスーパーだけ。食べたいものがあっても売っていないことが頻繁に起こった。夜中に無性にジャンクフードが食べたくなっても、やっている店がないから買うことが出来なかった。当然好きなブランドの服を買うこともできなかった。

便利な生活という観点で言えば間違いなく大学生のときの方が便利だった。お金に余裕があったわけではないけど、限られたお金の中で不自由ない生活をした。田舎での生活は就職してお金に余裕がある割に、お金を使う場所がないため不自由を感じる瞬間が多い。妥協してプチプラファッションでいいから新しい春服が欲しいと思っても、山を越えて車で1時間かけて買いに行くたびにささやかなストレスが溜まっていく。

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都会の生活に戻りたいと思う瞬間が何度もあった。自由に使えるお金が増えた今だからこそ、都会の便利な環境で満たされた生活を送りたい。そんな燻った思いを抱えていた。今も少し抱えている。

一方でどこか安心している自分がいる。環境の不便さを理由に諦められる自分に安心している。背伸びしないで生活ができていることに安らぎを感じている。「どうせ田舎には売っていないから」と欲しいものを諦めている。「田舎だからおしゃれする場所もない」と言って、最新のファッションから遅れた理由を正当化している。田舎にいるから知らないと言うことができるから、流行りに乗り遅れないようにSNSに振り回される必要がなくなった。都会に住むおしゃれなあの子を見て羨ましいと思うことはあっても、ねたんだり僻んだりすることが無くなった。

「田舎だからしょうがない」。

諦めると言うと負け惜しみのようになってしまうが、実際のところ最も自然な自分の姿になっただけだと認識している。流行という上辺のものに取りつかれて本当に自分が求めているものを流行で隠していた。

その証拠にどうしても欲しいものは、どんな環境にいようとも必死で手に入れようと努力できるのだ。ネット販売を使ったり、休日にわざわざ出かけて買ったりする。そして手に入れるまでの苦労が長かった分、何よりも大切に扱うことができる。手に入れるまでの労力に見合ったものしか買わないとなると、命の短いトレンドよりも、長く使える自分に合ったものを選択できるようになる。

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誰かに合わせる必要がなくなって、私は私の時間を大切にできるようになったと思う。出かける場所がない代わりに、家で思うがままに手芸や読書に打ち込むようになった。外食が減って自炊をするようになった。無人販売のホウレンソウが甘くておいしいことを知った。

人と足並みをそろえることは、都会に住むうえで欠かせないスキルだった。変だと思われないことが何よりも大切で、その次に大切なのはおしゃれだと思われることだった。自分のためではなく、他人からの評価のためにお金と時間を使っていた。でもどうやら私は自分のためにお金も時間も使いたい人間のようだ。

自分のペースで歩きたいし、他人の目を気にして好きなものを隠したくない。シーズンごとに新しいものを買っては捨ててしまう生き方より、悩んで悩んでやっと手に入れた欲しいものをずっと大切に使う生き方を選択したい。

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これからも田舎で生きていきたい。不便な環境で充足した自分とともに生きていきたい。田舎にいると人間が生きていく上で不可欠なものは実はそんなに多くないのだと思うことがよくある。最低限の衣食住と娯楽さえあれば、後は自分の捉え方次第でいくらでも充実した人生にかえることができるような気がする。

むしろ登場するものが少ない分、密度の高い生活を送っていけると信じている。たとえ田舎の狭いコミュニティーに辟易しても、私が私で居られるなら一人になってもいいのかもしれないと思う。今は遠く離れた誰かとも簡単に繋がれる良い時代になったのだから。都会に住む誰かを羨んで、同じくらい羨ましいと思われる生活を、私は田舎で送りたい。