見た目も中身も優れた先生は、女性というだけで夢を掴めなかった

「優秀」をそのまま擬人化した人。
古典の海川先生を評価するなら、そう言うほかない。
先生はいつもパリッとしたスーツを着て、しゃんと立つ。その立ち姿は50代前半とは到底思えなかった。そして、通る声で、教科書に載っていない古典の知識をハキハキと話す。見た目も中身も優れた先生であった。
ある日の事だ。高校生時代の私は先生たちに座右の銘を聞くことをしていた。同じく国語科の先生で座右の銘を「バランス」と答えられた先生がいた。おそらく中庸の徳、過ぎたるはなお及ばざるがごとしと言いたかったのだろう。それを海川先生に話した。海川先生は鼻で笑って、こうおっしゃった。
「バランスなんか大事にしてたら何もつかめない。若い時はどこまでも尖るべきである。右だろうが左だろうが、何か一つの思想にどっぷりハマるべきである。なんでも中途半端じゃ何も得られない。極端にならないと分からないものもある」
一理ある。私はそう思った。
(教師になった今考えると、中立的立場であるべき教師が右左を気にしないのは流石にまずいと思う。ちなみに海川先生の座右の銘は失念した)
海川先生といえば、忘れられない話がある。
先生の授業は授業の終わりに文章を読んで思ったこと・感じたことを書いて提出することになっていた。私はそこでエッセイを書くのにハマっていたため、毎回長文を書いて送っていた。先生は毎回よろこんで読んでくれた。「内容は良いが、お前の書く字は汚い。ワードで作ってきなさい」と苦言を呈されたこともあったが。
その時は源氏物語の授業をしていた。授業後、私はこのような文章を書いた。冒頭はアーサー王物語に、女が自由に生きられることを求める老婆の話から始まる。紫式部も父に「男であればよかったのに」と言われながら育った。彼女は女でも自由に生きられることを望みながら源氏物語を書いたのかもしれない──概略すると、大体そんな内容である。
次の時間、先生が皆に何枚かのプリントを配った。見ると、私の書いた文章であった。
先生はそこから自分の過去を話し始めた。先生は本が好きだったので、出版社で働くことを希望していたらしい。大手の出版社の採用試験を受け、なんと最終面接まで残ったという。しかし、どれだけ待っても最終面接の知らせが来ない。先生は出版社への就職をあきらめ、教員の道を選んだ。そして、しばらくして知人から驚くべき話を聞くこととなる。その知人曰く、その出版社の新入社員は、男性しかいなかった。先生は、希望する進路を絶たれたのだ。女性というだけで。男性でないというだけで。
静まる教室に、先生は最後におっしゃった。
「皆さんも女性として生きていたら、何かしら思うところがあるでしょう。ですので、ぜひこの文章を読んでみてください」
今、どこの企業でも女性というだけで採用を断るところはない。私の母の会社でも優秀な女性をよく見かける。
ふと思う。女性が差別なく採用される未来を創ったのは、差別され採用されなかった過去の女性たちなのではないか。先生たちのような女性たちが腐らず、別の道で結果を出し続けていたから、社会は変わっていったのではないか。いばらの道を踏み続けたから、道となった。
しかし、その道はまだ不完全なところも多い。セクハラ、マタハラ、マミートラック。女性たちへの障害はまだ沢山ある。
未来の女性のために何ができるだろうか。このような悪しき風習を残さないことである。そのためにも、私たちは声を上げ続けよう。懸命に働こう。結果を出し続け、社会を変えよう。
ガラスの靴も天井も、叩き割れ。
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