ダイエットにお熱で、病にまで発展してしまった頃に比べると、今はなんでも食べるようになって体型もゆるんできた。
以前は絶対に口にしなかったハンバーガーやポテト、スナック菓子などのジャンクフードもおいしく頂けるようになってきて、それは結果的に良かったのだけれど、自分のアイデンティティも崩れ落ちてしまったような感覚に陥ったのも事実である。

「野菜から食べて、次はタンパク質、最後に炭水化物……」
「一日〇kmは絶対に歩く」
「グルテンは口にしない」
「筋トレと半身浴はできれば毎日」
「体重が〇kg増えたらもう人生終わり」

などそれは厳しく、自罰的に生活をしていた。モデルになるわけでもないのに。
過食と拒食を繰り返す中でも体重計と食事記録アプリにかじりついて数字と格闘していたが、年を重ねるにつれて段々とその鬼節制がゆるんできたのだ。

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ゆるみ始めてからはなんだかぼけてしまったかのように何もかもどうでも良くなってきて、筋トレもできたらたまにやる程度だし、食事記録アプリも消して好きなものを食べている。
私の好物はさつまいもとねぎとろ、牛肉、バニラアイスだ。
彼氏と外食に行く時は二人とも寿司が好きなので、両者一致で大体回転寿司になる。どちらも大体食べるものが決まっている。私はねぎとろ軍艦、サーモン、まぐろ。彼氏はイカ、鯛、まぐろ。

こういう時、回転寿司は気を遣わないのでいい。板前さんがいる寿司屋に行くと「この人またこれ頼むのか」とか「ツウじゃねえなぁ」と思われてしまいそうなものだが、タッチパネル式のチェーン店は同じ皿を何枚頼んだって作っている人とは顔を合わせない。
だから食べ方が成長しないというマイナス面はありそうだが、圧倒的成長セラミック笑顔人生を送るつもりは毛頭ないので好きなようにしようと思う。

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痩せる以外の楽しみに没頭することで、命からがらダイエット地獄から逃れることができた。それは音楽鑑賞でもあるし、読書でもあるし、書きものでもある。
今度はそれらに没頭しすぎて時々しんどくなるが、そういう星の下に生まれてきたのだろう。常に何かに集中していないとだめなのだ。社会問題なども浦島太郎状態で情報を調べている。

振り返ると、減量生活を送っていた頃って一体何だったんだろうと呆然としてしまう。
芸能を目指しているわけでも、アスリートでもなかったのに肉体をいじめ抜いてただ時間だけが何年も過ぎ去った。

おそらく人間社会や現実世界からの逃避だった。手元に残ったのは無駄なストイック性と栄養の知識だけ。

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でもそれは、今していることを走馬灯の中で振り返った時も同じことだろうと思う。

「あんなに短歌や俳句ばかり詠んで、一体何だったんだろう」
「人々が社会生活を営み健全な人生を歩んでいる時に、背を向けて本の虫になっていた時期は何だったんだろう」

あのダイエット中心の生活も、私の人生になければならない期間だったのだと考えることにする。だから今していることも必要なこと。意味もないけど、無駄な時間でもない。
苦しまなければ分からないことはあって、私はきっとその痛みを知らなければならなかったのだ。

今から夕食の準備に取り掛かる。今日のメニューはほうれん草の胡麻和えと、鶏胸肉のバターソテー、煮卵、ポテトサラダだ。
今日も一日が無事に終わって、食事にありつけることがありがたい。
愛する人と食べるご飯は愛の重さが加わってカロリーが増す。数値化して測れるものじゃないから、もう食事記録アプリを再インストールすることはないだろう。