祖父が遺してくれた計り知れないほどの愛。形見と共に生きていく

これは4年前、紅葉が赤々と色づき、少しずつ気温が低くなる、冬が訪れる少し前の話。
地元を離れて就職し、長い歳月が流れていた。日々、目の前の仕事に追われ、忙殺されていた私はその日の晩、メッセージを見ることもなく眠りについていたらしい。
朝起きたら、数十件のメッセージがスマホに入っていた。
恐る恐るポップアップされた伯母のメッセージを見て、絶句した。
祖父が亡くなった、その報せだった。
そのあと、どうやって職場に行ってその日の仕事をしたか、あまり判然としない。
とにかく「帰らなければならない」と思った。実感は全くなかった。
「祖父が亡くなったので、急で申し訳ありませんが帰省します」と、然るべきところに触れ回ることで、実感を持とうとしていた。
実家は基本的に玄関の鍵が掛かっていない。
世間が狭いからか、好んで悪さをする人がいないし、代わる代わる客人の来る家だったからかもしれない。
普段から開いている戸を自然に引くことで、「あぁ、私はこの家の子だったんだなぁ」なんて思う。
挨拶もそこそこに祖父の棺を見た。白い綺麗な棺だった。開けてもらうと、いつも着ていたジャンパー、日記をつけるのにいつも使っていた大学ノート、その他諸々の、祖父を形造るものたちで空白が埋め尽くされていた。
祖父の顔は安らかで、使い古された言葉で例えるなら、まるで眠っているようだった。
祖父を見て一番先に出てきたのは、なぜ元気なときに帰ってきてやれなかったのか、という後悔だった。
仕事を始めてから一度も故郷へ足を運ばず、日々、目の前のことに精一杯になっていた自分を、亡骸を前に恥じた。
祖父母孝行なんて何もしていないのに、こんなに早く逝ってしまうなんて聞いていない。そこまで思って、聞いていないのではなくて、わかりながら目を逸らしていただけだ、ということを自覚した。それは堪えるのに充分なものだった。
ふいに天井を仰いでまた絶句した。
私があれほど飾ってくれるなと念を押していた、成人式の前撮りの写真が額に入れて飾られている。
視線に気づいた祖母が言った。
「おじいちゃん、毎日それを見て言ってたよ。『うちの孫は本当に綺麗だなぁ』って」
私はそれで、堰を切ったように咽び泣いた。もう応えてくれない祖父を目の前に、いくつ詫びの言葉をかけただろう。
祖父は情に厚い人だった。口数は少ないが陽気な人で、静かでいながらいつも周りに柔らかい眼差しを向けるような人だった。あまり気性は荒くないが、大事なことはきちんと言う人で、祖母によるとそうして家庭のいざこざを陰ながら紐解いた人でもあったらしい。
本人には悪いが、孫としてはあまり、上に書いたような感じの印象は抱いていなかったのが正直なところだ。 私の記憶の中にあるのは、リビングで相撲を見ている姿。大好きな競馬をしに行っては、「負けた」と言って家庭の財布からお札を抜いてにやにやと笑うその顔。ただ、意識下にいるのはそういう姿だったとしても、情に厚いとか、清らかという祖父の印象を聞いても違和感はない。おそらくそういう人だということは普段から行動に現れていたのだと思う。
訃報は新聞のおくやみと親族の電話でしか触れ回らなかったのに、家にはたくさんの人が訪れ、手を合わせてくださった。そうした様子を見て、こんなに慕われた人だったのかと孫の私は驚いていた。
葬儀が終わった後、祖母からおもむろに渡されたのは、文字盤が蒼く複雑に輝く腕時計だった。
若い頃にした海外出張の際に彼が買って、少し使って大切に今まで取っていたらしい。
およそ50年も前のものなのに色褪せず、時間を正確に刻む。私が着けても不自然ではない繊細な作りだ。形見として受け取り、使うことにした。
もしもう一度会えるなら、一目あなたに会いたい。
おじいちゃん、私が成人してから一度も帰らなかったから、大好きなお酒を酌み交わすこともできなかったね。一晩でいいから、美味しいお酒を飲みながらいろんな話をしたい。あなたに支えられていたと、きちんと伝えたい。
あなたが残してくれた意思を、機会を、見失わずに生きていきたい。
数え切れないほどの後悔は、あの世に行ってから精算をさせてほしい。それまで、待っていてね。
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