これまでにはない挑戦。頑なに拒んだ「かわいい」を受け入れてみた

“かわいい”は一生私には似合わない言葉だと思っていた。なんなら今でも思っている。ただ、頑なに似合わないと思い、言葉にし続けてもいいことはない。だから、“かわいい”を受け入れてみることにした。
私がかわいいという言葉が似合わないと思ったのは、子どものころからきれい系やキャリアウーマンに憧れていたことに起因する。きれいな人、かっこいい人になりたくて、着る服や髪型を意識した。知識を身につけた賢い女性を目標にして、勉強や雑学をインプットすることに力を入れた。
子どもながらの弾ける生活は私には関係ないと線を引き、壁を作り、自分とは隔てて子ども時代を過ごした。クラスメイトには、絶対モテると誰が見ても思うくらいかわいらしく愛嬌も持っている女子がいたので、張り合いたいとも思わなかった。棲み分けが違うとさえ思っていたので、意識するだけでは意味がないとも思った。
洗面所で自分の顔を見たとき、どう考えてもかわいいとは言えない自分の顔を目の当たりにしてがっかりした。あの子がいる世界には行けないけれど、あの子の顔を持ってみたいとは思った。かわいいを持ち合わせてみたいと思ったことはある。けれどなれるわけがないと現実に落胆しながら、かわいいと言われることを避けた。
背伸びをしたのは、その“かわいい”を受け入れてみようと思ったからだ。今まで避けて拒んできた言葉を、自分に向けて言われたとき、素直に受け入れてみよう思った。
今の職場で働き始めたとき、20代前半で職場では最年少として入職した。親世代の人と一緒に働いているので、私のことを娘のようにかわいがってくれている。そんな人たちからかわいいと言ってもらえている。もちろん私がかわいいという言葉に抵抗があるなんて知らない。むしろZ世代の人と位置づけている節もあるので、かわいい文化に浸っている人という認識すらありそうだ。
職場の人たちは、本当に悪気なくかわいいという言葉をくれた。最初は否定していたが、そんなわけない、と押し切られることも多いので、受け止めることにした。会話がこじれるほうが面倒だと思ったからだ。以降、私の中に残っているかわいい部分を受け止めてみることにした。笑顔を今までよりも多く出すように心がけてみたり、リアクションを大きめに取ってみたり。これまでの自分にはない、私的には挑戦的な実践だった。
かわいいという言葉やイメージを受け入れることは、私のなかではありえないことに等しかった。ずっとかわいいと寄り添う日は来ないと決めつけており、今もそう思う節がまったくないわけではない。ただ、受け入れなければ20代を生きていけないと思ったのかもしれない。とはいえ、受け入れてみると、気持ちが楽になった部分もある。
今までは、かわいいという言葉とそれを取り巻く世界を頑なに封じてきた。少しでも開かないように頑丈に封じ込めた。これが案外エネルギーをたくさん使っていたということがわかったのだ。
無理やり封じ込めているので、使わなくて良い力を使ってしまったということになる。やめると、かわいいに関連したことだけでなく、すべてに柔らかく慣れた気がした。考えを変えて、価値観をアップデートできた、と思っていいだろうか。変化を試みるのは、勇気のいることであり、怖いと感じられることでもある。思い切って行動に起こすには、とても力が必要で、変わったときの自分を想像するとわけがわからなくなることもあるだろう。
けれどきっと、チャレンジしてみてよかったと思える経験ができたと思うはずだ。少なくとも私は、チャレンジできたことに意味があると思っている。
今、こうして思いを綴っている私は、“かわいい”を受け入れると決めて、実践できて良かったと思っている。心も軽くなり、見えている景色も明るくなれたような気がするからだ。また、他のチャレンジにもやってみようと思える回数が増えた。良い方に転じている証だと思う。
ときに背伸びは必要だ。自分を変えたいと思っているときこそ、背伸びをする時期なのだと思う。まずは怖がらずに挑戦してみてほしい。もちろん、自分の気持ちを最優先にして。
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