改めて最近うれしかったことを振り返ってみると、私に起こった小さな幸せの多くが、「自分の《好き》が誰かにとっての《好き》になる」ことに関係していると気づいた。

自分が大切に思っているものや、心惹かれる事象が、誰かの心にも響いた瞬間。そのときに感じる嬉しさは、言葉では言い表せないほどあたたかく、じんわりと心に広がっていく。まるで、自分の中の大事な部分を肯定してもらえたような、そんな気持ちになる。 

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たとえば、ふとした会話のなかで何気なく口にした言葉や音楽、趣味の話。相手がそれらに興味を持ってくれて、「おすすめしてくれたあれ、すごくよかった!」と笑顔で話してくれる。そんな何気ない出来事に、私は深く喜びを感じてしまう。些細なきっかけではあるけれど、自分の中では確かな「つながり」が生まれたような、そんな気がする。

とくに、私が「好き」と思っている人たちーー恋人に限らず、気を許している友人や家族、大切に思っている人たちーーとの間で《好き》を共有できたときの嬉しさは格別だ。 
信頼や親しみの気持ちが、ひとつの共通点を通してさらに強くなるのを感じる。それは、言葉にしなくても自然と伝わっていくような、深く静かな感動だ。

もちろん、世の中には「自分の《好き》は誰にも知られたくない」「特別なものだからこそ秘密にしておきたい」と思う人もいるだろう。それもとても素敵な考えだと思う。誰にも共有せず、自分だけの大切な宝物としてひっそりと胸に抱く――そのような《好き》との向き合い方もまた、美しく尊い。

しかし、私はどうしても「自分の《好き》と誰かの《好き》が重なること」に喜びを感じてしまう性分だ。好みや価値観が重なると、相手との間に目に見えない橋が架かったように感じられるのだ。

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とくに私は、昔から少しマイナーなものを好む傾向がある。アイドルでもゲームでも、世間で大きく注目されていないものに惹かれることが多い。だからこそ、自分が見つけた「素敵!」と思えるものを、人にすすめるときはいつも少しだけ勇気がいる。

その感動を分かち合いたい反面、「興味を持ってもらえなかったらどうしよう」と不安になることもある。

けれど、そんなときに「すごく良かった!」「私も好きになったよ」と言ってもらえたら...。その人がその作品を好きになった瞬間、自分の好きなものが、ただの個人的な趣味ではなく、「誰かの世界にも影響を与えた」ものになるのだ。自分の感動が他人の感動にもなったような気がして、その共有体験は何度味わっても飽きることがない。

以前、とある友人に勧めたインディーズの音楽グループがあった。とても良い楽曲ばかりなのに、知名度はまだ低く、聴いている人も少なかった。私にとっては宝物のような存在だった。半ば勇気を振り絞ってその友人に紹介したところ、数日後、「あのバンド、最近ずっと聴いてる!」と社交辞令ではなく、本当に心の底から話してくれた。少なくとも私にはそう見えたのだ。

そのときの幸福感は今でも忘れられない。まるでその音楽を通して、私たちの間に新しい共通言語が生まれたような感覚だった。

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《好き》という気持ちは、本当に不思議な力を持っている。自分自身を形づくる根っこのようなものでもあり、誰かと心を通わせる鍵にもなる。それは時に励ましとなり、支えとなり、前に進むためのエネルギーになる。つらいことがあった日でも、「あれに触れれば元気が出る」「またこれを楽しめるようにがんばろう」と思える。それほどまでに、私にとって《好き》は、日々を生きていく上で欠かせない大切な存在なのだ。

だからこそ、その《好き》を誰かと共有できたとき、特に大切に思っている人と分かち合えたとき、私はそれを「小さな幸せ」ではなく、「とても大きなよろこび」だと感じている。たとえ世界の片隅で起こった静かな出来事でも、私の心の中では、まるで花がふわりと咲いたような、そんな優しい輝きを放っているのだ。