お酒が飲める人生だったら、どんな人生だっただろう。
私は、お酒がまったく飲めない人間だ。
グラス一杯のお酒を口にするだけで、顔が真っ赤になる。

二杯目に進もうものなら、頭がふわっとして、足元が少しぐらつきはじめる。
昔、安い中華料理屋でレモンサワーを三杯飲んだ夜は、お店を出たら世界がぐるんと回って、道路の端っこにしゃがみ込んで10分ほどその場を動けなかった。

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厄介なことに私は“嘔吐恐怖症”を抱えているので、吐くリスクが上がる飲酒というものを無理するなんてとても恐ろしくて仕方ない。
「頑張って飲めば強くなる」みたいな言葉には、どこか理不尽な気持ちを覚える。普通にならないと思う。

ある時から「お酒を嗜む人生」には、きっと永遠に辿り着けないのだと理解した。
そう理解して納得しているものの、ときどきものすごく羨ましい気持ちになる。
お酒が好きな友人や先輩がウイスキーや焼酎やワインの銘柄に詳しくなっていく様子を見ると、なんだかひとつの“大人の階段”を私だけ踏み外しているような気になって。

20代前半の飲み会でおかしくなっていく人間にはそこそこ呆れて遠い目で見ていたけど、年齢を重ねれば重ねるほど私の周りの人々は「こだわりの一杯」を見つけたり、お酒の飲み方が上品になっていく。

それはまるで、宝物を見つけた人がその話を嬉しそうに語るような顔だったり、体に染み渡るその味や香りを全身で楽しんでるように見える。
私はその話をにこにこ聞きながら、「きっと一生わたしには感じられない種類の幸せだ」と思ってしまう。

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たとえばそれは、子どもが「くぅ〜っ!」とか言いながら親がビールを飲んでるのを見つめるような状態で、あれは自分の世界にはまだないけど、でも確実に存在している“大人になったら出会える楽しみの世界”だったはずなのに、私は今世でも出会えないことが発覚した、という気持ち。

「飲めないことそのもの」に関して、人生で困ったことはそんなにない。シラフのままで飲み会のノリについていける程度には、おしゃべりも好きだし、人付き合いも嫌いじゃない。
お酒好きの先輩たちに囲まれても、ちゃんと自分のポジションを保てる。

お酒をぐいぐい飲む人と一緒にご飯に行っても、「あなたはたくさん食べなさいね」と笑って言ってもらえるくらいには、私自身も自然体でそこにいられる。
支払いも、飲んでいない分ちゃんと軽くしてもらったり、割り勘にしてもらったり、そのあたりのバランス感覚は、大人になって少しずつ身につけてきた。

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いや正直、ビールやワインよりもコカ・コーラの方が断然好きだから良いんだけど。
「お酒ってのはお金を溶かすのよ」という先輩を見ると、「飲めなくて良かったかも」と思う日もあるけれども。

けれども、それでもやっぱり「お酒を味わう楽しみを味わえない人生」にだけは、未練のような気持ちが残る。

友達が「この料理にはこのビールが絶対に美味しい」と嬉しそうに語っている横で、私はそのボトルに手を伸ばすことができない。

味の違いもよく分からないし、自分の好みに合ったお酒を探し求めることもできない。
海外で美味しく食べる料理に合うお酒を飲むことも出来ないし、ソムリエと縁のない人生。
「たまらない…!」と言いながら表情を変えて飲むその顔は、私にとっては羨望の的だ。私は、そういう“嗜む”という余裕が羨ましいのだ。

きっとこれからも、私はお酒の味を深く知ることはないのだと思う。
人にはどうしても手が届かないものがあって、縁のないものがある。
私にとってそれが“お酒が飲める人生”だったということだ。

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たぶん私は、お酒が飲める人生を夢見ながらこのままずっと飲めないままでいる。
来世があるなら、そのときは美味しくお酒を嗜んでみたい。

お気に入りのグラスを片手に、ウイスキーだかバーボンだかを持って「良い香り」とか言いながら笑ってみたい。

日本酒の味を楽しんで、読めない漢字の銘柄をサラッと注文してみたい。
韓国料理を食べる時はチャミスルをクイっと飲んで、スペイン料理やフレンチではソムリエをお呼び立てしたい。

でも今世は、悔し紛れに「やっぱコーラが最高!なんでも合う!」と言いながら乾杯して、美味しいものをたらふく食べてニコニコしていようと思う。