私は2001年に滋賀で生まれた。父は大阪出身、母は広島出身。大学で出会った2人は父の仕事の都合で奈良から滋賀へ移り、そのタイミングで私が生まれた。

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小学2年生のとき、父の仕事の都合で茨城に引っ越すことになった。ずっと滋賀が私の生きる世界だったし、他の世界は知らなかった。人見知りをするし簡単に人と馴染めるタイプでもない私は引っ越しが嫌で嫌で相当泣いた。父の前では言えなかったが

「パパのバカ(大泣き)」
「パパは悪くないんだよ、会社の都合だよ」
「じゃあ会社のバカ(大泣き)」

という会話を母としたのを覚えている。

けれど単身赴任という選択肢はなかったらしく、渋々茨城に引っ越した。
最初の頃、相当なストレスがかかったという記憶はあるが茨城でも友だちはできたし、特に中学校は楽しかった。茨城で出会った一生の友だちと呼べる人もいる。

それでも私にとって茨城が帰る場所になることはなかった。引っ越してすぐの頃はたぶんまた数年で引っ越しになると思うと言われていたこともあって根付くつもりもなかったし、完成しているコミュニティに入ることにひどい抵抗を示す人間なので、根付くつもりがあっても根付けなかったかもしれない。結局、よそ者であることに変わりはなかった。

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滋賀生まれ、茨城育ち。さあ次はどこへいくのだろう?
また転勤があるってことは今の人間関係もいつか終わるってことか。
そう思って不安でしょうがなかったこともある。習い事の送迎の車の中でこれからのことが不安で窓の外を見ながら泣いていたのを覚えている。

結局、父の沖縄への転勤が決まったとき、私は中学2年生で受験を控えていたため母と妹と私の3人は茨城に残り、父だけ単身赴任することになった。

高校はとなりの市の高校に進学。大学進学を機に京都で一人暮らしを始めた。
京都に行くことは自分で望んで決めたことだ。浪人してまで行きたかった大学。今の大学で学びたいと思ったのはいうまでもないが、馴染みのある関西圏に戻りたいという思いも強かった。

京都に来て、滋賀に住んでいた頃に母と遊びに来ていた京都駅のデパートにまた遊びに行けるようになった。私以外の人からしたらなんてことがないことのはずなのに、訳もわからず誇らしかった。昔来ていた懐かしい場所に自分で戻ってきた。自分で選び取って戻ってきた。それが誇らしかった。

東京に行くとなんだかいつも頭痛がするな、と思うくらい都会が苦手だけど、京都は大好きだ。茨城よりずっと都会だけど景観保護条例のおかげで建物の背が高くないので空は広いし、ド派手でギラギラしたパチンコ屋も少ない。少し歩くと素敵な建物やお店が目に入り毎日飽きない上に、川も山もすぐ近くにある。自然と日常と非日常がいい具合に混在している。私には京都の刺激がちょうど合っているようだ。

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私は今、あわよくば一生京都に住んでいたいと思っている。関西で生まれたというところも大きいが、私の持っているエネルギーを受け止める包容力と、反対に活力を与えてくれる輝きとの両方を持っている街だと思う。

滋賀から茨城に引っ越し、またどこかへ引っ越すかもしれないと思い生きてきた18年間があり、私はどこ生まれで実家はどこなのか、帰る場所はどこなのか、全然わからない。ずっと不安定だった。今も変わらず不安だ。
どうかこの京都が、私の帰る場所になってくれますように。