祖母が亡くなった。
症状が現れ、病院に向かった時には既にステージ4の膵臓癌だった。はじめ余命は半年から1年という話だったが、亡くなったのは診断から丁度2週間後のことだった。周りも本人も、全くお別れの準備ができずにその時は突然来てしまった。

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仕事で忙しい母や叔母に代わり、最後の数日は泊まり込みで祖母の側にいた。祖父もたまたま遠方で仕事が入り、最後の数日は私と祖母2人で過ごした。

医師の診断とは裏腹に、祖母の体力は日に日に無くなっていった。私は入所施設で働いていたことがあり、その間に何人もの利用者が空に旅立つ姿を見てきた。祖母の姿が、その時の利用者の姿と重なり、恐らくひと月も保たない、と私の経験が告げていた。

ある朝、全身の痛みで辛いはずなのに最後の力を振り絞り、祖母は大切にしていた真珠の首飾りやダイヤの指輪などを渡してくれた。
「もう、話せないと思うから」
息を荒げながら、何度も「これを全部持って帰って」と箱ごと私に託してきた。
涙を堪えながら「ありがとう」と感謝の言葉を伝えると満足そうに祖母が笑った。
亡くなったのはこの次の日のことだった。

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昨年11月、うつ病が悪化して仕事を休職。その後退職をした私は、今までの時間を取り戻すように何度も祖母の元に泊まりに行き、食事をし、一緒の時を過ごしていた。年末年始は祖母宅で過ごし、一緒に箱根駅伝の中継を見て、学生たちを応援していた。祖母の作った、出汁を丁寧にとったお鍋の味が今ではとても懐かしい。

亡くなるひと月前には、初めて私が一人暮らししている街まで2時間程かけて電車で来てくれた。近所の気になっている洋食屋さんで食事をし、その後私のアパートで3時間ほど他愛もない話をした。
その思い出たちが余計に私を悲しませてきた。今思えば、私が休職するのも全てが必然で、神様がくれた宝物みたいな時間だったのかもしれない。

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もう一度会えたら、その時は生前伝えきれなかったたくさんの感謝と愛情を伝えたい。亡くなってから、祖母の友人や妹から、私のことを可愛い孫だと話していた事実をたくさん聞かせてもらった。私が赤ん坊の頃の写真を持ち歩いていたのも、私が膵臓に良いらしい、ということでシジミやキクラゲを勧めたのを「なこちゃんが教えてくれたのよ」と嬉しそうに周りに話して食べていたことも亡くなってから知った。祖母に愛されていた事実ーーわかってはいたはずなのに私の想像を超えるくらいに想ってくれていたと、亡くなってから気づいた。気づいたときにはもう遅かった。

亡くなった当日、冷蔵庫に入っていたシジミでお味噌汁を作り、みんなで啜った。なんだか少ししょっぱかった。

そして母の日である今日、納骨を行なった。今頃、先に入っていたご先祖様と積もる話をしているかもしれない。どうしても祖母を感じたかった私は小さな骨壷を購入し、少しだけ祖母の骨を頂いた。今は私の家で一緒に過ごしている。

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祖母の孫になれて、本当に幸せだった。忙しい親に代わって、私をここまで育ててくれてありがとう。家庭の事情で両親と旅行が出来なかった私を、たくさん旅行に連れて行ってくれてありがとう。また会うその日までさようなら。大好き。