最近、職場の近くにクロワッサンが美味しいパン屋さんができた。 有名なお店らしく、店前にはバターの香りに惹き寄せられたサラリーマンやOLが並んでいる。 残業終わりの疲れた頭には、ふんわり香るバターを拒否する強い意志もなく、家まで我慢出来ずに何度か並んだ。 たんと怒られてしまった日には、心にまでバターが沁みてふんわりと涙が出ることすらある。

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ある学生時代の友人家に泊まり行く時、お土産にそのクロワッサンを買って行くことにした。 余れば朝ごはんに食べてもらおうと、手のひらサイズのクロワッサンを10コ注文する。
友人家に着くなりクロワッサンを手渡すと、友人は「懐かしい、覚えてる?」と言った。

高校の部活は厳しかった。 運動部でそこそこ強いと言われるチームだったけれど、練習よりも先生が厳しかったと思う。 私はそんな先生との相性が一段と悪く、いつも不快にさせていたようで、よく怒られていた。

怒られる内容は多種多様

なんで言ったように出来ないのか、 何が分からないのか、 弱気になるな、 ボールをもっと呼べ、怒られているうちが華なんだ、先生は嫌いで言っている訳じゃない……。

落ち込むたびに、先輩や同級生はそんな風に私を慰めてくれていて、私もその言葉を信じて素直に全てを改善しようと思った。

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ある練習試合の時、私はいつものように先生に怒鳴られながらも走って走って、ボールを追った。 何試合もある練習試合で、何度も何度も怒られて、そうじゃない、と言われれば大きな声で返事をした。 ずっとそうじゃないと言われ続けると、自分がやっていることは全て間違っているかのように分からなくなり、プレーに自信がなくなってくる。
マネージャーは、先生の言葉を復唱して私にボールを呼べと言っているけれど、もう大きな声でボールを呼ぶことが怖くなってしまっていた。
結局、練習試合では満足のいくプレーなど一つもなく終わった。

先生はその日の集合で、チームが弱い理由は私だと言った。
私は、張り詰めていた気持ちからサーっと何かが引き、先生は自分のために言っているのではない、と冷静に思った。
そこからは、周りが私に何と声をかけたのか、私は泣いていたのかも覚えていないけれど、
解散した後、先生はチームにクロワッサンを差し入れしたそうだが、私は意地になって食べなかったらしい。

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先生はどうして私へ執着したのだろう。先生は、そのあと違う学校に移動になり、以降先生と2人で話す機会はなかった。

もう一度会えたら聞きたい。

私の事が嫌いでしたか?
私は他人を不快にさせるような人間ですか?
それとも本当に私のためを思って怒っていましたか?

社会人になり、会社に勤めていると、まだまだ怒られる事が度々ある。
その度に、私の人間性に問題があるのか、出来ないことに怒られているのか、分からなくなり、不安になってしまう。
だいたい、相手を思って怒る、というのは何だろうと思う。
私はまだ、誰かのために怒る、という経験をしたことがない。

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こんなにバターの香りが食欲をそそるクロワッサンを前にして、食べないと言った当時の私はきっととても傷ついていたはずだ。
私は傷つきました、と伝えられたらどれだけ気持ちがすっきりするだろうか。

友人は、小さなクロワッサンを見るたびに、先生が差し入れてくれたことを思い出すと言う。良い思い出として残っているのだ。友人は、先生の言葉は私への期待があったように感じていたようで、先生と私の間には強い絆があったように見えていたそうだ。

悔しいけれど、次にパン屋さんの前を通る時には先生を思い出してしまう。