小学校5年生の頃、陸上クラブに入った。
そのおかげで、足の速さだけが自慢だった。逆上がりも、側転も、クロールもできなかったけれど。
スポーツができる、かっこいい女子になりたかった私は、中学でも高校でも陸上部に入った。
田舎の学校で部員数も少なかったし、県大会の競争率も高くはなかったから、ギリギリ入賞できるくらいの選手だった。

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大学に入り、陸上部のレベルの高さに怖気づいた私は、心機一転、ラクロス部に入部した。
ラクロスなら、みんなが大学から始めるし、私ならすごい選手になれるかも!
そんなわくわくで胸がいっぱいだった。

ラクロスが上手くなりたくて、とにかくたくさん自主練習をした。
授業をサボって壁打ちをし、朝一番にグラウンドに行って練習した。
何かができるようになるたびに楽しくて、ラクロスにどんどんハマっていった。
足の速さをラクロスで活かせることが、最高に爽快だった。

それでも私はいつまでもBチームだった。
いわゆる二軍だ。
リーグ戦には出られないし、Aチームとの練習にも参加できなかった。

同期の仲間や先輩、コーチは、私がAチームに上がれるよう、自主練習に付き合ってくれたり、アドバイスをくれたりした。
それなのに、いつまでもAチームに上がれない私は、自分が情けなくて、もっともっと練習した。うまくならなきゃ、そんな使命感でいっぱいだった。

その結果が、Bチームの試合や練習で表れ始め、自信をもってプレーすることができるようになっていった。
ガッツのあるプレーでたくさん点を決め、持ち味の足の速さも活きる場面が増えた。

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大学4年、最終学年を迎えようとしていたころ、コロナ禍により、部活動の自粛を余儀なくされた。
それは、私がAチームにやっと上がれた直後だった。
Aチームのリストの中に私の名前が入ったと、同期の主将に報告され、涙が出た。最終学年で、やっとだ。

部活動の自粛により、チーム全体で集まって練習ができなくなり、個人での練習メニューになった。
私はAチームの誇りを胸に、たとえ一人でも、必死で練習に励んだ。
Aチームで戦力になるには、ここで踏ん張らないと。
Bチームの仲間の悔しさがわかるからこそ、ここで手を抜くわけにはいかない。

やっとチームでの練習を再開できた、大学4年の夏。
Aチームとして初めて全体練習に臨んだ。気合も自信も十分だった。
しかし、Aチームでの練習に入った途端、私は思うように動けず、ミスを繰り返した。
やっとできるようになったことも、Aチームでは通用しなかった。
自分らしいプレーがまったくできなかった。
私は2週間余りで、またBチームに落ちた。

私は分かっていた。
自分はスポーツの才能に恵まれていないことを。
どんなに頑張っても、他の人には追いつけないことを。
努力が下手くそだってことを。
Aチームとして練習した2週間、自分が到底追いつけないレベルであることを悟った。

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どんどんラクロスが楽しくなくなった。
根性とか、気合とか、そういう言葉でいつも自分を慰めていたのに、そんな私はいつの間にかいなくなった。
朝、起きるのも憂鬱になり、練習にも毎日重い足取りで向かった。
練習の一環として、毎週していた5キロのペース走では、完走することすらできなくなっていた。
走ることが大好きだったのに、3キロ過ぎると息が苦しくて、涙が出てきた。足が全然前に進まなくて、なんで走ってるんだろうと思った。

こんなにラクロスを嫌いになるなんて。
こんなにスポーツが楽しくないなんて。
走ることがこんなに苦しいなんて。

悔しかった。
諦めている自分が嫌だった。
本気で向き合い続けられない自分に怒りが湧いた。
でも、正面からスポーツに向き合い続けたら、私がボロボロになると思った。

それでも私は、なぜか毎日、自主練習だけは必死でしていた。
毎日泣きながら壁打ちをした。
引退する前日まで、壁に思いっきりボールをぶつけていた。

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どんなにスポーツを好きでも、スポーツには好かれなかった自分。
どんなに向き合っても、気持ちをぶつけても、必死になればなるほど、どんどん遠くに行ってしまうような存在だった。
まるで恋愛してたみたいだな。

もっと気軽に楽しめればよかったのかなぁ。
あの頃の私には、そんな余裕はなかったな。

社会人2年目。
仕事や趣味をほどほどに楽しみながら、なんとなく幸せに日常を過ごしている。
たまに、部活に明け暮れたあの頃を思い出す。
そのたびに、胸がズキッと痛み、目頭が熱くなる。
それでも、あの頃のように熱くなれるものを、また探している自分もいる気がする。