言葉にできなかった「ごめん」と胸の奥に残ったままの記憶たち

「ごめん」という言葉でぱっと想うことが二つある。
一つ目は、春になると会う友達。会うのは、毎年3月。出会ったのは小学校5年生。出会ったときクラスメイトだった彼女とは、奇跡的に高校1年生までその関係を継続した。大学は別々のところに進学して、以降年1回会っている。この春、彼女は社会人に、わたしは大学5年生になった。
第一印象は最悪だった。お互いわりとストレートな物言いをする方だった上に伝え方も拙かったから、些細なことでしょっちゅう衝突を繰り返していた。クラスの中で絵が得意な方だとか、国語の成績が近いとか、クラス内のなんとなくの立ち位置が近いのも気に食わなかった。文化祭や新入生歓迎会で絵を描くときに一緒に作業をせざるを得なくなって、だんだんと距離を縮めた。
最初はやっぱりストレートすぎるように感じた物言いも、慣れてしまえば深く考えすぎずに済んで心地よかった。「第一印象が最悪でもこんなに仲良くなれるんだ」と、人間関係そのものに希望を持てるような、奇跡的な関係だ。実は、表立って喧嘩らしい喧嘩はしたことがないので、彼女に「ごめん」を言ったことはない。お互いに「あのときのアンタは最悪だった」と言いながら楽しく食事をともにする。
果たして、彼女に「ごめん」を言う日はくるのだろうか。もう来ない気もするし、これから先ずっと付き合っていくのなら言うときが来るのかもしれない。
もう一つは少しベクトルが違う「ごめん」だ。昨年末、白杖を持っている方を案内した。わたしの大好きなとある街の、駅のそば。踏切の10メートルくらい手前で、踏切が開くのを待っているようだった。正直、最初は「不思議なところに立ち止まっているひとがいるけど、大丈夫だろうか」と思った。でも近づいてみて、白く長い杖を見て、理由がわかった。数秒迷って、覚悟を決めた。「お手伝いできること、ありますか」。
「近くのコンビニまで、案内お願いしても良いですか。肩につかまらせてください」と言われ、そのひとの手を取り自分の肩に置いた。その重みで一気に緊張感が増した。今までわたしが何も考えずに歩いていたその街は、歩道と車道の間の段差も、場所によっては白線もなく、道はくねくねと曲がっていて、とても怖い場所だった。先週もひとり案内する機会があった。盲導犬を連れてバスロータリーの通路の真ん中に立ち止まっているそのひとにも、声をかける人は周りにはいなくて、話しかける覚悟を決めた。
「3番のバス停に行きたくて」と言われ、昨年末と同じように肩につかまってもらって案内した。今まで便利としか思っていなかった数字の案内表示は見えないひとにとっては、何も案内されていないのと同じなのだと気がついた。
ふたりとも、案内しながらずっと罪悪感があった。今まで考えもしなかったことへの罪悪感。気がついたところでどうにかできる道を想像もできないことへの罪悪感。謝ったところで何も解決しないけど、言葉には出さなかったけど、「ごめんなさい」と思いながら歩いたあの日をわたしは忘れたくない。
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