”最近”でもないのだけれど、忘れたくない嬉しかったことを書き留めておこうと思う。

入社して1、2年目の頃、相当悩んでいた。

わたしはいわゆるコンサルタントのような職業で、日々クライアントと向き合っている。その向き合い方や対応の仕方に苦戦する毎日を送っていた。

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加えて、うちの会社の体制上、手取り足取り教えてくれる先輩や、OJT、研修が充実しているというよりは、自分から仕事や教えを請うていくことが求められた。右も左も分からない中暗闇に放り込まれたわたしは、1人で黙々と、見えない出口のようなものを探して進み続けるしかなく、何かを掴もうともがくしかなかった。

あるときの挨拶で偉い人が、「私たちのやりがいは、『あなたがいてくれてよかった』と言ってもらえることです」とおっしゃった。
わたしの身にそんなこと起こったことないなあと漠然と思ったと同時に、そんなこと起こったことがない自分が情けなくなった。そういう関わりができていない自分を悔やみ、不甲斐ない気持ちでいっぱいになった。
それから、仕事にもさんざん振り回されて泣かされて、本当に苦しい時間を耐え抜くしかなかった。

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それは、もう少し時が経って、なんとか仕事に馴染んできたなと思い始めた頃。

「セナさんがいなかったら私、どうなっていたかわかりません」
「セナさんに話聞いてもらうために来たんです」
「セナさんがいてくれてよかった」

わたしも、その言葉に出会うことができた。嬉しかった。
あの暗闇の中を必死にもがき続けて良かった。今もまだ、全然何も見えないままだけれど、その声が聞けて良かった。
これが”やりがい”か。そう思った。

さて、弊社に訪れるクライアントの年齢層は幅広い。子どもにも対応している。
そして、その子どもたちの中には、「遊ぶぞ!」「話すぞ!」と意気込んでくる子もいれば、なにかにつけて「わかんない」とこぼし、保護者に連れて来られているだけ、のような子ももちろんいる。
その、後者にあたるかもしれないと感じていた子と話していたときだった。

「セナさん、今日誕生日ですよね。おめでとうございます」

なんかこの一言だけで、この子は保護者にただ連れて来られているだけじゃなかったんだ、そう思えた。

ここに来ることが、その子にとってちゃんと意味のあることだと、理解しているのだ。そして、わたしとのやりとりにちゃんと意味を見出してくれていたのだ。そう気付いた。

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もしかしたら、”この子がここに来ている意味ってあるのかな”と思っていたのはわたし自身で、”ただ連れてきているだけ”と思っていたのはその保護者や周囲の大人たちだけだったのかもしれないと気付かされた。

もちろんすべての子に本気で向き合っているつもりだったけれど、甘かった。まだまだ伸びしろがあるなと思えた出来事だった。

必要としている人がいるのに、本当に辛苦に耐え難く、転職を見据えて働いていたけれど、時々こういう”やりがい”に思いがけず出会ってしまう。
そうするとなんだかここから離れることが惜しくなってしまったりするものだ。だって、それくらいうれしかったから。