昔よりPMSがひどくなったり、暴飲暴食したら翌日まで胃もたれしたり。
歳を重ねることで起きる変化はさまざまで。
ごめん、その三文字を発するハードルも、歳を重ねることで比例したものの一つだ。

ごめんという気持ちが込み上げないわけではない。
ただ、それを発するということが、いつからか喉につっかえるようになった。
聞こえてないのは伝わってないのと同義で、発してないのは思ってないのと同義。
すれ違いや後悔というのはたった3文字から始まることもあるのだと知った。

◎          ◎

昨年度、私に生まれて初めて社会人という立場での後輩ができた。
私は家族構成上末っ子ということもあり、後輩というものが得意ではなかった。
学生時代は、多少の関わりはあるものの、後輩と関わらないというスタンスを意識すれば、正直薄い関係を貫くことは容易だった。

それを意識したわけではないが、サークルにも興味なく、アルバイトも正社員の人が多い職場を選択したということもあり後輩との関係を築く機会が本当に少なかったように思う。
そんな20数年の末、初めて深い関わりが必要となった後輩。
深い関わり、と言っても元々誰に対しても同僚という枠組みの人については業務に関してだけというのが私のスタンス。

異性の後輩ということもあり、距離感を間違えないように、しかし教えるところはしっかり緩急をつけて関係を構築することを意識してスタートした。

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正直、関係を構築するということにかなり手間取っていたように思う。

「難しいですね、育成って」

そう上司に呟くたびに苦笑いをする上司に心の中でデコピンする。

オブラートに包まずにいうとしたら、恋は糸の相性はそこまで良くなかったように思う。
しかし、職場の人間との相性など極端な話どうでも良いことだ。
共通目標に対してコミットするのであればそれでいいのだ。
裏を返せば職場における達成目標に対してコミットする姿勢がない時は最後だ。
やってできないは許せるが、そもそもやらないは許せない。

度々垣間見えるやらない姿勢に瞬間湯沸かし器かの如く頭に血がのぼる。
感情的に怒らないように、あくまで目標を達成するための行動が足りない、道から逸れていることだけを指摘するように、そう自分に言い聞かせていた。

そう思いながら発する言葉の途中に時々、正論という針で刺してしまうことがあった。
ほとんど反射と同じ要領で出てくるその言葉を発した瞬間、客観的に見つめる私が頭をかかえる。

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それでも針を後輩に深く刺してはぐりぐりと傷口を掻き回す。

ごめん、言い方がきつかった。
ただそれだけ言えたらよかったのに、私は発することができなかった。
根本的問題にフォーカスした場合私は悪くなくないか?という感情が勝ったからだろう、と自分自身を分析してみる。

とはいえ、時が経つにつれ発した言葉やその事実自体は少しずつ消えかけていく一方で、ごめん、その3文字を言っておけばよかったという後悔だけは時が経つにつれて心に溜まっていく一方だ。

「最近私言い方キツくない?」
「そうかな?言わなきゃいけないことを言っているだけだと思うよ。理不尽なことは言ってないもん」

私の在り方客観的に分析してくれる同期の返答に瞬間的に安堵し、結局のところは自分自身の違和感が拭えない時点で根本的な解決になっていないことをセットで痛感する。
後輩から直接、もしくは上司からも言い方について指摘されたことはない。
それでも私はこうして覚えている。

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歳をとるということは、それだけ自分を構成するものが塔のように積み上がり、根本的な自分がより強固になっていく。

なんともちっぽけなプライドだ。
今ならまだ間に合う。小さくはえたプライドを折って、柔軟に自分という存在を時代に対応させる良い機会だ。