薬のために食べていた私が「おいしい」と思えたひと皿の出会い

「食べられなくなったら、入院するしかないのよ」
学生の頃のこと。私と同じ病気を経験した人の言葉を思い出しながら、私は食卓と向き合っていました。目の前には母が作ってくれた食事があり、おいしそうな匂いを感じることができます。
でも、「食べたい」とはどうしても思えませんでした。自分はお腹が空いているはずだとは思います。自力でエネルギー補給ができない日が続くなら、病院のお世話になるしかないことも、自分の体重が日に日に落ちていることも、理解しています。
でも、それでも食べたいとは思えません。食欲が底をついていたのです。私の中にかろうじて残っているエネルギーは、「食事のために使える余力などない」と叫んでいました。
「食べないと、薬が飲めないでしょう」
家族の言葉に、分かってるよ、と言い返したくなりながら、無理やり食べようとします。薬を飲むために、食べないと。そんな義務感だけを頼りに食事を口に運ぶ日々を、かつての私は過ごしていました。
何のために生きているのかも、なぜこんな状態でも生きているのかも分かりません。三度の食事が苦痛になること。それはそのまま、人生が苦痛に満ちることに他なりませんでした。
どうにかこうにか、そんな闇のような日々を脱しつつあったある日。私は一人で通院していました。病院は混んでおり、朝から並んでいたにも関わらず、診察を終えて薬局で薬を受け取る頃には、すっかりお昼になっていました。家族に電話をすると、「もう昼時だし、何か食べてきたら」と言われました。
確かに、家まで歩く気力はありません。何か食べなければと本能的に感じます。でも、何を? 思えば、外食からは、めっきり遠ざかっていました。
私は病院の近くをウロウロと歩き回り、1軒のイタリアンを見つけました。小さなお店で、少し入りにくさはあります。でも、大声を出さなくても注文できそうだなと考えながら、私は、初めてのお店に足を踏み入れました。
渡されたメニューを見ても、それほど「食べたい」とは思えませんでした。「食べないと」とは思っても。
それでも、食べられそうものを選び、注文し、料理がやってくるのを待ちました。お店は一人で切り盛りしているらしく、オーダーをとってくれた方が厨房に立つのが見えました。食材を炒める音、匂い、タイマーの音……。それらを聞いて、自分の食事が用意されているのを感じました。
ほどなくして、注文したパスタが運ばれてきました。できたての食事でした。「食べたい」という感情が、かすかに揺さぶられました。私は、料理の写真を撮ることもなく、手を合わせて食べ始めました。家のものより少し濃い、外食ならではの味つけが口の中に広がりました。
「おいしい」
声にこそ出さなかったものの、私の舌は、体は、そう言っていました。次の一口を食べたいという思いで咀嚼し、また次の一口を口に運びます。まるで健康な人のように、普通の速度で食べながら、私は思いました。
そうだった、食事は楽しいものだった。薬を飲むためじゃなくて、生きていく活力を得るため、味わうために食べるものだった。
そんな当たり前のことを、私は忘れていたのです。そして、そんな大切なことを思い出させてくれたその食事を作ってくれた人に、「ご馳走さまでした」以上の言葉を伝えられたらいいのにと思いました。
もし、他にお客さんがいなくて、もし、こんなにこじんまりとしたお店ではなかったなら。広い店内で、誰の目にも触れることなく食べることができたなら。私はきっと、わんわん泣きながら食べていたと思うのです。それくらい、心に響いた食事だったのです。
でも、そんなことを相手に伝えられるはずもなく、私は、他のお客さんと同じようにお勘定をして家に帰ったのでした。
結局、数年をかけて病気を克服した私は、病院に行くことはなくなりました。あのお店の近くに行くことも、なくなりました。
でも、食べることの意味を思い出したあのお店を、あの味を、私はきっと、いつまでも覚えているのだろうと思います。
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