毎食、たくさんのおかずとおなか一杯になるボリュームの食事が用意されていた実家がどれだけすごいことだったのか、それが分かったのは大学に進学して一人暮らしを始めて少し経った頃だ。

食事は毎日のことなので、頭の片隅にはあるものの、自炊にしてもお弁当にしても食材がなければ買いに行かないといけないし、その前に何が食べたいのかも決めないといけない。当たり前のことなのに、毎日のことだからこそ、コストパフォーマンスや効率も考えつつ、どうにかちゃんとやりたい。忙しい日々の中、今思い出すのは、実家で何年も間ずっと、続けてきた母の姿だ。

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大学生活を始めたころには、いろんな料理に興味があったし、休日に材料を買い込んでレシピサイトと格闘しながら作り置きの副菜を創ったりもした。野菜の皮むきに時間がかかったり、火の通り具合に苦戦したりしながら、いつか納得できるSNSに投稿されているようなおしゃれで美味しそうな食事が作れると信じていた。

当たり前に毎日の食卓に作られていたサラダの野菜の値段が時期によって変わることも、意外と痛むのがはやいことも知らなかったし、料理によって適したお肉の部位なんて思いもよらなかった。そして、1つのことを続けることが嫌いな飽きっぽい私の料理は、なかなか満足する盛り付けや味の仕上がりにはならなかった。それでも、調理と食事に時間をかけることは自分を大切にして丁寧に暮らすことの象徴のようで、そこには小さな憧れがあった。

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でも、いつからか憧れは憧れのままになってしまった。SNSにあふれているカフェのご飯のような食事を毎日作ることは、金銭的にも体力的にも難しい。もちろん、そんな風に素敵な食事を作ってくれる人がいるなら、私だって喜んで食べたい。ただ、食器をそろえ、彩や味にこだわったメニューを考えて、食材を購入して料理する。

そして、その調理の後片付けをする。それだけの時間を食事にかけることは私の優先順位では無理だったのだ。もともと、食事の優先順位の低い私には、食事に必要以上の手間をかけてもあまり幸せにはなれなかった。SNSの幸せそうな投稿の中身は私には空っぽだったのだと思う。

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そのことに気づいてから、懐かしくそして尊敬するのは実家で母が作っていた料理だ。高校生の時に何気なく食べていた時には、食材がこんなにお金がかかることも知らなかったし、好きだった料理に実は手間がかかる工程があることも気づかなかった。

チーズを使った料理が精一杯のおしゃれ、くらい飾り気がなくて当たり前の食卓だったけど、その料理たちだってたくさん手間や時間をかけれていたことを知った今、母はすごいと思う。

食事をすることはそのまま、生活や健康につながっていることは確かだ。それでも、どうしても食事に対しての優先順位の低いのが、私なのだ。濃い味付けやお惣菜を避けて、少しでも調理されていない野菜からサラダを作る。母が私に残してくれたこのささやかで最低限のルールで、おしゃれさの欠片もないサラダを私は今日も食べている。