大事な彼ができて、「お前なんて」と言ってくる母との関係が変わった

以前にも書いた母とのことである。
物心ついたときには、ヒステリーなお母さんと、それに思い切りやり返す娘の図が出来上がっていた。完全な戦争状態だった。
しかしである。最近になって、私にも変化があった。
付き合う人ができて、本当に心を許せる場所ができたと感じられるようになったことが大きいかもしれない。家の中で嫌なことがあっても、お母さんに「お前なんて」と言われても、大して気にならないという心境ができてきたのだ。
「お前なんて」とお母さんは言うけれど、そういう私のことが好きで、一緒にいたいと言ってくれている人がいる。「私なんて」と暗い顔をしていると、そんな顔をしないで欲しい、そんなことを言わないで欲しいと必死になる人がいる。
だったら、その「お前なんて」も、「ああそうですか、『あなたは』そう思うんですね」というくらいなものじゃないか。そういう「いち個人のいち意見」と変わらないくらいじゃないか。自分の心の中に、お母さん侵略不可避の領域が出来上がってきたような、そんな感じがある。
最近のことだ。私が台所で料理をしているとき、またひと競り合いがあった。
私はお茶を飲むのが好きだ。1日に何杯も飲む。その急須を洗うとき、私はお茶っ葉も一緒に水で洗い流し、そのままシンクの排水口のゴミ受けに溜めたままにしていた。大雑把で忘れっぽい私は、お茶っ葉がしばらくそのままでも大して気にならない。食器を拭いていたり、片付けていたり、そうこうしていたら洗濯機に呼ばれて、そうしたらラインの通知が来て……そうしているうち、シンクのお茶っ葉のことなんてすっかり忘れてしまうこともしばしばだったりする。
私の言い分としては、「片付けたくないのでもなく、片付ける気持ちがないのでもない。まして、誰かにゴミ掃除を押し付ける気があるわけでもない」。忘れるときもあるけれど、おおむね自分で片付けていると思う。だが確かに、「ゴミを出したらすぐ」ではない部分は大きい。のだが、母にはこれが許せたものではないのだ。母は私とは正反対で、神経質で潔癖な人間であったりもする。
「昨日も私がゴミを片付けた!すぐ片付けろ!何でいつも人にやらせるんだ!何でそんなことも分からないんだ!やらないんだ!できないんだ!」
こうして改めて文章にしてみると、私にも存分に非があると思う。が、私の心情では、「何でたったそれだけのことをそんなに無能呼ばわりされなければならないんだろう?何でもあなたの快適なペースでは進みませんけど?」「やってくれたのはありがたい。私が忘れてしまったことは申し訳ない。それをかわりにやらせてしまったことも申し訳ない。かわりにやってくれたこともありがたい」「けれど、それを、何でそんな、あなたの無能を私が肩代わりしてやったとでも言いたげな言い方をされないといけないのだろう?」
実際は特別怒鳴られたわけでもない。母としても、特別私を否定しようという意図で接したわけでもないのだろうと思う。
けれど、私の全身がもう、「母=私を否定してくる存在、私を踏み躙る存在、敵」と認識している。何らか踏み込んでくると察知すると、もう全身で、母という「外敵」を追い払おう、拒絶しようと全力で反応し、一気に鼓動が早くなる。冷静な判断、というものも、自分が全力で拒否しているのが分かる。
ああもう、この人とは何の信頼関係も崩れ去っているんだな。
「別に分からないわけでもない、やろうという意思がないわけでもない」「何でそんな言い方されないといけないんだ」「すぐっていつ?あなたのすぐと、私のすぐは違うけど?何で自分の感覚に従わなかったってことでそんなに責められないといけないの?」
反応しなければいいのは、十分過ぎるほどよく分かる。それでも、抗わないと自分を保てないとすら思う。
「お茶っ葉をシンクに捨てたら、五分後までには片付ける」。
これが今回の戦争の決着だ。
「なるほどね。確かに、シンクにゴミが放って置きっぱなしだったら、排水口が詰まっちゃうし良くないよね。それは確かにな、なるほどな、って納得もできたよ。ありがとう」
このとき、母との戦争が始まってから何十年の中で初めて、私は母に「ありがとう」と返すことができた。
「考えすぎ」「被害妄想」と母は小さく吐き捨てていた。私はもう、傷つくばかりじゃない。お母さんなんて、と悪口を言うばかりではない。お母さんの言い方が悪い、やり方が悪い、とばかりも言わない。吐きそうなほど苦しくても、ちゃんとそこから成長する。
当たり前のことかもしれない。その当たり前のことすらおぼつかない自分が情けなくて……それでも、生きていくしかない。
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