私の母は、人並み以上に「視える」人だ。無論、それは視力の話ではない。人が気づかない部分にも気づき、気遣いができるのだ。

例えば、母はある日、街に落ちているゴミについて嘆いていた。路上に落ち葉やマスク等のゴミなどが放置されていることが気になるとのことだった。

私たちが暮らしている街は、比較的新しく、研究施設が多数あるため、地域に根付いている人よりも仕事関係で一時的に移り住む人が多い。そのせいか、街を皆で管理してよりよくしていこうという意識が薄いのかもしれない。

朝、母はよく仕事前に家の周りのごみを片付けているのだが、その日の夜にはまた新たなゴミが落ちていることもあるという。

その話を聞いて、私はまず、自分の中でそれらのゴミが意識にのぼっていなかったことを知った。毎日母と同じ道を歩き、当然目にしているはずなのに、何も思うことなくスルーしてしまっていた。そのことに少し恥ずかしくなった。自分がボーっと何も考えずに歩いていることに気づいてしまった。

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そのときふと、以前心理学の授業で習ったことを思い出した。ヒトは、目でモノを見るのではなく、頭でモノを見ているのだと。

私たちの脳には、情報があふれすぎているこの世界で生きるために、いらない情報をシャットアウトする機能が備わっている。興味のあるものだけが目に入り、意識にのぼる。私たちは皆同じ世界を生きているようで、誰1人として同じ世界を見てはいないのだ。

母は、人から嫌われない人だ。私が物心ついた時から何度も転職をしているが、そのたびに職場の人と仲良くなって好かれている印象がある。

というのも、人一倍他人の心に敏感で、相手が少しでも不快に思う前に先回りしてそれを回避しているからだ。人がモヤっとするポイントを押さえているため、母の教えをしっかり守れば、世の大抵の人は立ち居振る舞いに関して嫌悪感を抱くことはないだろう。

口が悪くトラブルメーカーな近所のおじいさんでさえ、母に対して文句を付けることを諦めたくらいだ。足が不自由なおじいさんの代わりに母が庭の手入れを手伝ったことをきっかけに、お礼の品を頂き、気難しいおじいさんも心を開き始めている。

私はたびたび、そんな母の教えで新たな視点を得てきた。

マンションでは夜中に洗濯を回すと下の家に迷惑がかかるため、夜10時以降は洗濯機を使ってはいけないということ。掃除機をかけると埃が舞うため、近所の方がお昼を食べているであろう11時〜13時は避けること。床に物が置いてある状態は整理整頓が不十分だということ。集金に回るときはあらかじめ日程を数日決めておき、それを事前に伝えておくこと。洗い物は食器を洗うところがゴールではなく、三角コーナー内の生ごみを捨て、シンクやコンロまわりを拭いて初めて完了と言えるということ……。

私がそれまで気にも留めていなかったことに気づき、不快な思いをする人もいるのだと衝撃を受けた。それと同時に、自分の鈍感さや能天気加減に呆れてしまった。

自分がいかに狭い世界で、自分よがりに生きてきたのかと恥じた。

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しかし、母の話を聞くうちに、人が気がつかずにないがしろにしている部分にも母が気を配れるのは、先天性のものでないとわかった。

街に落ちているゴミに気がつけるのは、普段意識的に掃除をしているからだ。日頃掃除をしているから、そこに新たなゴミが落ちていると意識にのぼる。近所の草刈りも毎回参加し、綺麗にしている意識があるからこそ、茂ってきた雑草や植え込みが気になる。

自分が街を綺麗にしているという当事者意識があるからこそ、より綺麗な街にしたい、気持ちの良い街であってほしいという想いが芽生えるのだろう。日頃何もしていない人には街への思い入れも生まれないし、そもそも私のようにゴミの存在にすら気づかないかもしれない。

母のそれは、生まれながらにして持った眼ではなく、彼女の日頃の行動が視野を押し広げていたのだ。

私はそのことに気づき、私も視える側になれるのだと、嬉しくなった。視える人でありたいと思った。

母のように視える眼を持って、できるだけ人との摩擦を避け、近所の人や職場の人とお互い好意的になれるような人でありたい。

翌日、私は初めて、家の前の植え込みを母と一緒に剪定した。