たまに流行に流されながら、新しい良いものとの出会いを待つ

流行や流行りは誰が決めるのだろう。高いもの=良しと誰が決めたのだろう。
そんな疑問を抱えながらも、私は時に流行に流され、背伸びをしている。
私たちは日々、あまりにも早く通り過ぎていく流行りに振り回され、時に脅迫されているような気さえ覚える。
○○がイマドキ、○○は時代遅れ、○○はダサい、○○をしたほうがいい、みんな○○している。
オススメ、と一見すると優しい顔をして生活の中に溢れているソレは、常に私たちを急かす。SNSや街の中の広告、テレビCMに、インターネット広告。そんな意図的に作られた流行や常識につい反発してしまう私もいる。
天邪鬼で繊細で人とかぶることが嫌いな私は、毎回流行りには乗ってやるもんかと、リアルタイムでは手を出さずに、流行りが終わってから手を出してみたりする捻くれ者だ。
でも一方で、周囲と違うことを恐れ、他人の目や、どう思われているか、浮いていないかを常に恐れてもいる。そんな私はいつも中途半端で、どっちにも振り切れない。
大学生の頃は今より敏感だった。自分で使える時間もお金もそれまでよりもずっと増えて、毎日私服で通学するのに、服にメイクに常に気を遣っていた。
社会人になってからは、その頃ほど友人に会う機会も減り、平日は仕事服でメイクもヘアセットも最小限、省エネモードに入ってしまった。
大学時代の友人と、しばらくぶりに会う時。普段の生活では大して気にしなくなってしまったけれど、浮かないように、いつもより念入りにメイクをして。普段はあまり使えない、 重いブランドもののバッグを持ったりして、ほんの少しだけ背伸びをする。
そこで、自分が使っているもの、身につけているものが、すでに友人の中では使われていないと知ると、少し恥ずかしさを感じるし、私も持ってるよなんて話になると、少しホッとする。
高いものに魅力を感じているのは確か。でもそれは、流行りだから?友人が使っているから?マナー?わからない。
物や情報が溢れている現在、私たちには沢山選択肢があって、誰でもなんでも自由に選べるようだけど、実際は違うのかもしれない。
私は生活にあまり余裕がない。正直、高くて欲しいものだって沢山ある。しかし、身の回りの何でもかんでも、高級品を身につけるわけにはいかない。だから、出来るだけ安いものを安いものをという方向に行ってしまう。
安くていいものもいっぱいある。巷には、プチプラコスメ、プチプラファッションも溢れている。でも実際のところ、それらをきれいに、遜色なく使いこなすのはモデルだから。一般人の、三十路に片足を突っ込んでいる私が使うと(使い方が悪いのもあるだろうけど)、どうしても安っぽく見えてしまう。いや、そういうフィルター がかかっているだけか。
そして、そんな時に知り合いや友人に出くわすと、恥ずかしくなってしまうのだ。何も悪いことはしていないのに。
私は流行に完全に乗ることも嫌いだし、苦手だし。流行は影響力のもつ何者かが勝手に作り出して、それがあたかも自然発生したかのような「世間の流行」として表舞台に出てきただけだと、斜に構えている。そのくせ、全くもって無視することもできない私は、やっぱり弱い。自分という軸が無いような気がしてしまう。
だから、今日も私は少し背伸びをする。たまに、デパコスやブランドのバッグを買う。友人たちとの約束に、いつものファストファッションは極力避け、少しでも、世の中の常識、同じステージにいられるように。
別に好きでもないものを買っているわけではない。心から欲しくて欲しくてたまらなくて買ったかと問われれば、疑問符が付いてしまうが。
背伸びをしてみて、新しく出会えるものもある。ちょっと背伸びして、買ってみたもの。結果的には、高かったから大切に使わなきゃと慎重になるし(慎重になりすぎて、使用頻度が少なすぎることも度々)、作りがしっかりしていて持ちが良かったりするし、きちんと感がある。
全部を高級品にする必要は無いとも思うし、したいとも思わないのだけど、やっぱりたまには、良いものを持ちたいとも思う。
良いものとは、自分がとても気に入っていて、たとえ高くても、覚悟をもって買って、長く使おうと思えるもの。しっかりとしたつくりや飽きのこないデザインで、持ちがいいもの。
これからも私は、たまに流行に流されながら、新しい良いものとの出会いを待ってみようと思う。
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