ドプン、ドプンと水面が揺れる風景の音。私が静けさに恋をした日

一目惚れって、もっと劇的なものだと思っていた。
たとえば、目が合った瞬間に世界が止まるとか、心臓が飛び跳ねるような、とびきりの衝撃。
でも私が一目惚れしたのは、そんな体験じゃなかった。
まるで世界からチョキチョキと切り取られた空間のような、静けさとの出会いだった。
そして、一目惚れしていたことに気づいたのは、しばらくあとになってからのこと。
京都・伊根の町。
新婚旅行の途中で訪れた、小さな中国茶専門のカフェ。
あの場所で眺めた風景が、今でもふいに記憶の中に現れる。
心が疲れたときほど、なおさら強く。
これまで京都には何度も行ったことがあったけど、市外を観光したのはこのときが初めてだった。
私たちは新婚旅行として、京都の小さな町・伊根を訪れた。
この町を選んだのは、ふと見たVlogの中に、その町の静けさが映っていたから。
舟屋が立ち並ぶ風景と、穏やかに揺れる海。
そして、インターネットの隅で紹介されていた中国茶カフェの情報がなぜかずっと頭から離れなかった。
「ここでお茶を飲みながらぼんやりしてみたい」
ただそれだけの気持ちで、私たちはそのカフェに立ち寄った。
しかしそのお店は、想像以上に「隠れ家」だった。
住宅の一部のような外観で、正直看板はわかりにくく、ドアの前で思わず立ち止まる。
本当にここで合ってるのかな? 入っていいのかな?
緊張しすぎて、旦那に引き戸を開けてもらった。
ドアを開け、店主の案内に従って狭い通路を通ると、広い空間にでた。
そこは。外の風の音も、人の気配も、なにもかもが遠ざかって、そこだけ世界から切り取られているような空間。
窓の外には、伊根の海。
穏やかな水面と、舟屋の並ぶ風景が、まるで一枚の絵のように静かにそこにあった。
店内にはBGMもなく、ただ風が水面を揺らす音と、他のお客さんや店主の静かな会話だけ。
光がやさしく差し込んでいて、空気までもがやわらかく感じた。
ところが、その店主がなかなかの曲者だった。
「うちにないお茶はない、何でも出せる」と言い切るから、びっくりして固まってしまった。
メニューもなく、何を頼んだらいいか分からず、あたふたしてたら、旦那が「金木犀のお茶はありますか?」と助け舟。
そんなやり取りも含めて、なんだかすごく穏やかだった。
ちなみに後から来店した外国人観光客も、店主に「No Menu.」ときっぱり言われ、あたふたと動揺しながら皆一様に「烏龍茶」を注文していた。
なんだかかわいそうで、それがちょっと面白かった。
お茶の香り、窓の外の光、店主のマイペースなやさしさ。
気づいたら私は、何も話さずに、ただその景色を眺めていた。
胸がドクンと高鳴るような一目惚れじゃないけど、気がついたらあの空間の静けさに心を奪われていた。
動く写真のような風景をぼんやり眺めているうち、不思議と胸の奥がじわじわと溶けていく感じがした。
「私、ここまで必死に生きてきたんだなあ」と思った。
結婚するなんて、少し前まで想像もできなかった。
苦しかったことも、何もかも投げ出したくなった夜も、全部ひっくるめてここまで来たんだって。
いろんな気持ちを、あの海と風とお茶の香りが、やさしく包んでくれたような気がした。
「この風景を、今、夫と一緒に見ている」
ただそのことが、しみじみと嬉しかった。
静けさに身をゆだねながら、ありのままの気持ちを眺められる。
そんな場所に出会えたことが、私の心をやさしく震わせていた。
胸が高鳴るわけでもなく、劇的な出来事があったわけでもない。
ただ、静かに時間が流れていって、気づけば退店する時間になっていた。
でも、不思議とその風景が、いつまでも頭から離れなかった。
思い出そうとしていないのに、勝手に頭の中によみがえる。
洗濯物を干しているときや、近所を散歩している時。
まるで心の奥に、こびりついたみたい。
これが一目惚れだったんだな、と思った。
その場では分からなかったけれど、時間がたっても色あせない、むしろだんだん鮮やかになっていく記憶。
きっとあの静けさは、私にとって必要だったんだと思う。
頭じゃなくて、心が先に「これだ」と反応していた。
それに気づくまで、少し時間がかかっただけ。
背筋を伸ばして、ドプン、ドプンと水面が揺れる風景の音を思い出す。
もう一度行きたいな、と思う。
ひとりでぼーっと過ごしてもいいし、また夫とふたりで訪れてもいい。
でも、またあの景色を見られるかどうかはわからない。
あの日のあの静けさは、確かに私の中に残っている。
一目惚れって、その場で「これだ!」と気づくものだけじゃない。時間をかけて、自分の一部になっていくものもある。
あの場所は、私にとってそんな「遅れてくる一目惚れ」だった。
だからきっと、これからもふと思い出しては、そっと心をなでてくれるんだと思う。
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