思い切って告白しようと思う。
実はここ4年、私は選挙に行っていない。

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私はこれを恥ずかしい、情けないことだと考えている。声をあげて、自分が生きる社会を変えるチャンスを、自らドブに捨てている行為に等しいからだ。

それでも私が選挙に行かないのには理由がある。
初めての選挙で、自分の投票に疑惑と絶望を覚えたからだ。

どうして党や候補者の名前だけを連呼する選挙カーが走り回るのか。無視されてもなお、候補者が人波に笑顔で手を振り握手を求めるのか。幼い頃から私は疑問だった。
名前だけ連呼されたって、手を振られたって、何をしているかわからない。何の意味があるのだろう。
それに、一生懸命に訴えかけても無視される候補者たちは絶対に辛い思いをしている。子供の私の目にも、大人たちの非情な無関心はつぶさに写っていた。時々候補者と握手し、会話しているのは、定年を迎えていそうな老齢の人だった。両親は辛うじて選挙には行くけれど、家庭内で選挙の話が出ることもない。幼い頃から日本の政治への無関心を痛感しながら、それでも私が選挙権を得てすぐに投票しに行ったのは、「たとえすぐじゃなくても、投票で自分の意思表示をし続ければ、きっと何かが変わる」ーーそう信じたかったからだった。

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自分なりに候補者の演説に耳を傾け、チラシに目を通し、私はドキドキしながら選挙会場の母校の体育館へ足を運んだ。
列に並ぶこと数分。意外と人がいる、歳が近い人も来ているんだな、と思いながら、紙と鉛筆を受け取り、私は目隠しのつけられたブースに立った。

候補者一覧に改めて目を通し、幾つかの名前に目を留めた私は、そこでハッとした。
私は今、聞いたことのある名前にだけ目を留めて、それ以外の候補者には見向きもしなかった。「知らないから」選択肢から排除したのだ。
そこで漸く、お馬鹿な私は、選挙カーが名前を連呼する意味、駅前で無視されてばかりの演説が行われる理由を悟った。
どちらも人の潜在意識に刷り込みを行うという点で、なるほど理に適っている。政治に関心はないけれど、選挙の権利は一応果たしておこうかなと思う日本人たちに、とんでもなく効果的な施策であるわけだ。

そう悟った私は呆然と「知っている」名前を紙に書き、のろのろと投票箱に入れ、体育館を後にした。
本来のあるべき姿とは全く異なる選挙システムに、淡い理想が打ち砕かれて、虚無感と敗北感が身体を支配していた。

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それから4年。社会人になった私は、周りの大人たちと同様、演説や候補者、チラシ配りの人たちを、まるで空気のように通り過ぎている。
候補者の党、名前に目を留めることすらなくなり、選挙特報を見るどころかテレビすら持たず、順調に政治に無関心になっている。

民主主義社会とは本来、そういうものじゃないはずだ。もっとこう、みんなの思いや声が国の在り方に反映されて、みんなにとってより良い環境が実現していくはずのもの。

こういう私の理想は、お馬鹿な幻想なんだろうか。