「ごめん」が言えなかったあのとき。素直に謝ることを教訓に

「ごめん」という言葉は、なぜとっさに出てこないのだろう。素直に謝れば収まったはずなのに、なぜか強がってしまう私がいる。強がってしまったと後悔をして、一人で自己嫌悪に陥ってしまう。一言で終わるのに、正解だとわかっているのに、どうして言い訳や強がりを見せてしまうのか、私自身もわからずにいる。
学生の頃、化学の実験でテーブルに薬品をこぼしてしまったことがあった。となりに立っていたクラスメイトに、「危なっ!薬品こぼれてたよ」と指摘されるまで、私は気づいていなかったのだ。こぼれた量は数滴であり、誰にも危険は及ばなかったのだが、私はこぼしていたことに気づかず実験を進めていた。
その時私は、こぼしていない、と言い訳を並べてしまった。気づいていなかったとはいえ、化学の実験で使う薬品は劇薬であることが多く、使う学生は全員危険であることは知っている。少しでも手に触れる危険があったので、気づいたら対処しなければいけないのだが、知らんふりをしてしまったのだ。
状況を振り返ってみれば、薬品の入った容器を持っていたのは私で、実験を進めていたのも私。薬品がこぼれていたら私が疑われるのは当然だ。にも関わらず、しらを切ろうとしてしまったので、とてもタチの悪い人になってしまった。
2つ、3つ言い訳を勢いに任せて口から出したあと、謝らなければいけないことに気づいて「ごめん」と言った。謝らなければ、と思い行動に起こした直後から、どうして素直に謝らなかったのだろう、と後悔が押し寄せた。
私の性格の悪いところだ。自分が悪いと思っていないときは謝らない癖がある。もちろん悪いことをしていなければ謝る必要はないが、その場を丸く収めるためのごめんなさいもある。
私はそれが出てこない。一度受け止めておくだけで静まるはずなのに、事を大きくしてしまうのだ。そのたびに自分の器の小ささが浮き彫りになり、落ち込む。私にもだめなところがあったのかもしれない。と思うこともせず、人だけを責める。悪い癖だ。
学生のときは、実験を始めたときに気づいていなかったものの、どう見ても私がミスをしてしまったとわかるだろう。強がりを言うのではなく、まず、謝って薬品に誰か触れていないかを確認するべきだった。
「ごめん」という一言が、私にとってとてもハードルの高い言葉になることがよくある。今回は学生のときのエピソードだが、もっと前も、今になっても口から出づらいときがあった。
意識をしていれば、周りが見えていれば出てくるが、余裕をなくしていると自分を守る方に走ってしまう。起こしたミスが少し大きくなればそれだけ言い訳も並べようとする。保身が私の本能なのだろうか。しかし人としては間違っている言動だ。
今はいい大人であるにもかかわらず、まだ素直になれないときがあるのは、私的に許しがたい。周りを見て、柔軟に対応できる心を持ちたい。自己嫌悪に陥ったあと、前を向くたびにそう思う。今後の、生涯にわたって掲げられる私の課題だ。人として成長して、意識をしなくても、ごめんが言えるようになること、受け止められる器を持つことは、大切だと思う。
エッセイを書くたびに、いろんな過去の思い出や過ちを思い出すが、そのたびに悪いところは直そうと誓う。だがあまりにも多すぎて、欠点だらけではないか、とツッコミを入れている。
これを読んでくれているあなたにも、出会ってきた人の中で、なぜか仏のようにすべてに寛容な人がいるだろう。そんな人になれたら、私も少しはいい人になれるのに、と思ったことはないだろうか。想像した人の寛容さ、私は自分の中に染み込ませたい。
昔できなかったこと、ごめんが言えなかった学びとして、身近なところで出会ったロールモデルを取り入れる努力はしたい。同じ過ちを繰り返さないように、次は周りが見られる余裕を持てるように。
悪くないことはごめんといえない私だから、きちんと自分が悪かったと自覚できるように、状況を正しく理解して、強がりはやめましょう。と、今も自分自身に言い聞かせている。
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