「最近ずっと担任と話してるじゃん、飽きないの?」

高2の夏。友達にそう言われたとき、心臓が早鐘を打った。図星だった。私はその時、人生ではじめて、先生という生き物に恋をしていた。

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担任は、世界史の先生だった。30代前半で、スーツが世界一似合っていた。教室の隅に落ちている紙ゴミに気づいて拾えるような人で、声を荒げることはなく、それでいて面倒見がいい。私にとって先生は、理想の大人だった。

その頃の私は、いわゆる問題児だった。遅刻はそれほどしないけど、すぐ保健室に行くし、体育の授業は半年に1回くらいしか出なかった。
それは、親に反抗できない弱さの現れだった。両親に刃向かえないから、先生の言うことを聞かないことで擬似的反抗期を体験していた。先生たちのことも好きじゃなかった。

そんな私が初めて自分の意思で「話したい」と思った先生が担任だった。

初回のホームルームで、自分の履歴書をプロジェクターに映しながら、自嘲するように人生を嘆いた先生に興味が湧いた。もっと話したい。同じくらい「人生がうまくいっていない」私のこと、知ってほしい——そんな気持ちが、じわじわと湧き上がった。

放課後、職員室の前で待ってみたり、「この問題の意味が分からなくて」とプリントを持っていったり。
どれも本当は、先生と話すための口実だった。
友達には「真面目だね」と笑われたけれど、内心ではドキドキしていた。先生目当てでくっついてること、ばれたらどうしよう、気持ち悪いって思われたらどうしよう。
そんなふうに思いながら、結局やめられなかった。

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先生と話しているときの私は、少しだけ背伸びをしていた。

言葉づかいを丁寧にして、知っている本やニュースを無理に思い出して話題にしてみたり、ほんとはあんまり知らない世界史の知識を知ったかぶりしてみたり。
高校生の自分が無力に思えて、どうにかして近づきたくて、“私以上の私”を演じていた。

ある日、先生にこう言われた。

「〇〇さんって、努力家ですよね。でも、無理してない?」

息が止まりそうになった。見透かされたと思った。背伸びしてるの、ばれてた。完璧に大人ぶれてるつもりだったのに。
頬が熱くなって、何も返せなかった。

先生は笑って、こう続けた。

「別に、背伸びすることが悪いとは思いませんよ。僕だって、先生になりたての頃は、先生っぽく振る舞うことに必死でしたし……誰かに見てもらいたいって気持ちは、きっと人を成長させるよ」

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その言葉を聞いたとき、初めて少し、息がしやすくなった気がした。背伸びしている自分を恥じなくていいんだ。むしろ、好きな人によく見られたいって思うのは自然なことなんだと知った。

それからの私は、少しだけ変わった。
無理に難しい話をせず、自分の感じたことを素直に伝えるようにした。
「この映画、先生好きそうだと思って」と映画館のチラシを渡したり、授業中に印象に残った話をメモして後で話してみたり。ほんの少しだけ、自然体の私でいようと思った。

それでも、背伸びはやめなかった。
背伸びはもう「無理をすること」ではなくなっていたから。好きな人の前で一歩でも近づこうと努力すること、それは私にとって“なりたい私”に近づく行為になっていた。

先生とは、結局そのまま卒業まで特別な関係にはならなかった。
ただ、進路のことで迷っていたときに、最後にこう言ってくれた。

「◯◯さんなら大丈夫ですよ。ちゃんと、自分で考えて自分で選べる人だから」

その言葉は、大学受験のときも、初めてのアルバイトで緊張していたときも、胸の奥でずっと支えになっていた。

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今思えば、あの時の私はたしかに背伸びしていた。でも、その背伸びがあったから、私は変わることができた。誰かに見られることの意味を知り、自分から一歩踏み出す勇気を覚えた。

そして、自然体の自分を少しずつ好きになっていった。

背伸びが私を変えたのだと思う。

成人した今でも時々、あの夏の職員室の扉の前に立っていた自分を思い出す。
あの頃の私が必死に手を伸ばしていたものは先生ではなく、“なりたい私”だったのかもしれない。