背伸びをすると、届かなかったものに届くことがある。子供の頃は棚の上のお菓子を取るために。大人になってからは「なりたい自分」に近づくために。

◎          ◎

私はこれまで何度か背伸びをしてきた。それは時に私を強くしてくれたし、時に私を壊しかけた。理想の自分を演じ、期待に応えようと無理をしたこともあった。だがある時、自分のための背伸びは私を前に勧めてくれたが、誰かのための背伸びは私を見失わせたと気づいた。

高校受験のとき、私は「背伸び」の意味を初めて実感した。
成績や模試の結果だけ見れば、私の第一志望は無理だった。だがどうしても行きたかった。絶対にその学校に通いたいという情熱と、それを叶えるためなら何でもするという覚悟が、最後まで私を支えてくれた。結果として第一志望の学校に合格することができ、この背伸びは確かに私を変えた。

しかし、大学受験のときの背伸びは違っていた。それは誰かの期待に応えるための背伸びだった。高校では、自分よりも遥かに優秀なクラスメイトたちに囲まれていた。「このくらいの大学に行くのが当然だよね」という空気があり、私はそれにのまれていた。

さらに、家族や親戚、地元の友人たちにもう一度すごいと思って欲しいと願うようになっていた。高校受験での成功体験が大きかったからこそ、もう一度同じように認められたくて、期待される自分を演じ続けていたのかもしれない。

◎          ◎

私は、気づかないうちに自分がどうしたいかではなく、どう見られるか、何を期待されているかで進路を選んでいた。自分を押し上げる力は、途中で尽きてしまった。入学した海外の大学では、自分の居場所がどんどんわからなくなった。

周りは明確な目標を持ちまっすぐに進んでいくのに、私は立ち尽くすばかりだった。そして、退学を決意した。日本に帰り、精神科に通うようになり、摂食障害も抱えた。「優秀だったはずの私」は、どん底に落ちたように感じた。

これらの経験から、高校受験での背伸びと大学受験での背伸びは、根っこが違っていたことに気づくことができた。一つは、自分のための背伸び。もう一つは、誰かのための背伸び。前者は私を前に進ませてくれた。後者は私の足元を崩していった。しかし、背伸びをすること自体が悪いわけではない。

むしろ、人は背伸びをしなければ、自分の限界を超えることはできない。たとえその背伸びが無理に見えたとしても、そこにはそのときの自分では見えなかった景色がある。私が海外の大学に挑戦したことで出会えたものも、まさにそうだった。

英語で行われる専門的な授業、自分で考え選ぶ履修の自由、そして文化も背景も異なる仲間たちとの寮生活。不安や孤独の中で戸惑いながらも、それらすべてが私の視野を広げた。結果として挫折してしまったけれど、その経験が今の私の一部になっているのは間違いない。あの背伸びがなければ、知ることのなかった世界だった。

◎          ◎

だから私は、もう一度背伸びをしたいと思っている。でも今度は、自分のために。誰かの目に映る自分でもなく、誰かの期待に応える自分でもない。「こうありたい」と願う自分自身の声に、正直に従ってみたい。それはもしかしたら、周りから見れば小さな挑戦に見えるかもしれない。

それがたとえ人目には映らなくても、自分の意志で手を伸ばすという行為そのものが、私にとっては意味のある前進になる。だから私はこれから、私のために背伸びをしていこうと思う。過去に届かなかった場所へ、今度は私のままで届いてみせたい。