長かった髪の毛をショートにしたことを、祖父母はとても残念がった。小学校入学から数ヶ月経った頃だったと思う。私にとっては別に深い理由はなく「短くしてみたかったから」というだけだったのだけれど、娘のいなかった祖父母にとって長い髪は女の子としての、そうあるべき“象徴”だったのではないかと振り返る。

髪の毛が伸びている時期のほうが喜ばれたし、髪の毛を切ったばかりのタイミングで祖父母に会うと、「なんで切ってしまったの」と問われるのが嫌だった。 

その後も髪の毛は短くしていた。ショートヘアは好きだったけれど、「祖父母の希望には沿うまい、女の子らしくなんてなるものか」という抵抗のような気持ちが少なからずあったような気がする。たまに気まぐれで髪の毛を伸ばしてみても、拠り所のない気持ちを発散させるかのように、自ら髪を切っては、その手直しのために美容室にお世話になることもしばしば。

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この頃に見た児童向けドラマの、ボーイッシュな女の子がスカートを履いているのをクラスメイトの男子がからかう、というシーンをよく覚えている。自分の性格的に、イジリ的なコミュニケーションも女の子らしい趣味も別にそこまで嫌いではなかったのだけれど、なりたい自分に素直になるとかそういうのは難しかった。

数年前に、ずっとしてみたかったヘアドネーションに挑戦した。髪の毛を伸ばすだけで人の役に立てるのならやらない理由はないと思ったし、新しい自分に出会うための口実にできると考えたからだった。定期的に美容室に通い、担当のスタッフさんには「切りたいと言っても止めてください」と伝えた。

美容師さんはそのオーダーを毎回守ってくれたし、さらにはヘアドネーションの規定の長さにするまでに通るどの長さに対しても、都度褒めてくれた。どんな髪型の自分も認めてもらえることで、自己受容をすることができた時間だったように思う。不器用ゆえにヘアアレンジは大してできなかったけれど、その時々の長さを満喫しながら、無事に30センチ越えの長さの寄付に成功。

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「誰かのためになれば…」とヘアドネーションのために始めたロングヘアだったけれど、他人に求められた女の子らしさのためではなく、からかわれないためでもなく、私は私で長い髪の毛も素直に楽しんでいいということを体感することができた意義深い経験だった。

一方で、ヘアドネーションという取り組み自体が「髪の毛がないことは悪」という無意識の押し付けになるというウェブ記事を読んだことがある。世論や誰かの一言に影響されすぎず、どんな髪型もそれぞれがそれぞれのオシャレとして認められる世の中になることを願う。

追記:また伸ばそうかなぁと思っていたところ、聞いてもいないのにショート派の夫から「似合わない。伸ばしていた時も早く切ってほしかった」ときっぱりとした口調で言われ、しっかりと悲しくなってしまった。私の自己受容と自己実現の探求はまだまだ続く…。