こんなにも、食べることが生きることに直結しているんだと、心から実感した病はない。
重度の拒食症で10年以上通院し続けている私は低栄養と低体重のため数え切れないほどの入退院を繰り返してきた。その度に「命の保証はない」と何度諭されただろう。

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2024年の9月から半年間に及んだ入院は、過去20年間のうち最も酷い状態で、一人暮らしである一軒家内に仮死状態で倒れていたところを訪問看護師さんが見付けてくださり救急搬送されたとこから始まる。

身体は既に冷たくなっていて、半裸のままキッチンの床に倒れていたそうだ。
救急隊が程なく到着したものの意識はなく血圧も測れないという有様。ICUではなく救命病棟に運び込まれたが、血圧を測ることすら叶わず、両腕に2本ずつ、足にも各1本、首にも穴を開け点滴の管が繋がれ導尿カテーテルも入れられ、…そこから記憶はない。

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次に気が付いた時はICU病棟。
しかし私の脳は極度の栄養失調による幼児退行を起こしており現状の把握が全くできなかった。
ただただ柵に囲まれたベッドでキョトンとしているだけ。
ICUに2泊した後は精神科病棟に移され、導尿カテーテルもその後1ヶ月以上繋がれたままだった。

主治医である先生の説明を何度も繰り返し聞き、やっと自分の状況をぼんやりとではあるが理解し始めた。運び込まれてから約3週間後のことだ。
どうやら5日間何も食べず、その内3日間は水も飲まずキッチンの床で倒れた様だ。多分、水が飲みたかったのだろう。

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私は個人的に、拒食症は緩やかな自殺だと思っていた。常に虚無感に悩み、生きている価値など無いと涙する。首にロープを掛ける気力などない。山や海に行く体力もない。となると、餓死するしか方法はない。

仮死状態のところを発見されたその当時、果たして私に自殺願望はあったのだろうか。脳内の遥か霞の向こうには確かに痩せ衰えた遺体をぼんやりと浮かべることはあった。でも…。
ICUで意識を取り戻した時、握りしめていたのは親友から贈ってもらった御守り。それと大好きな、今は亡き祖母の写真入りキーホルダー。走馬灯の様に、大切な人々の顔が次から次へと流れていく。

生きたい。生きていたい。もっともっと生きて、…それから天寿を全うして死にたい。事故死であってもそれが天寿だと納得できるくらいに。
あまりにも強く御守りとキーホルダーを握りしめていたせいで、未だに両手の指は不自由なままだ。

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いま綴ってるこの文章もパソコンのキーボードが打てないためスマホで入力している。
脳にも障がいが残り、記憶力も判断力も集中力も何もかも落ちた。
それでも生きているだけで今の私は幸せだ。
拒食症は鳴りを潜め、食べることと生きることに喜びが芽生えた。
足掛け4年治療してくださった先生は先年度で転勤されたが、最後の受診時に「僕は平山さんのこと忘れないよ。どこにいても必ずその時の主治医の先生に平山さんがどうしているか尋ねるからね」と仰った。

光栄と取るべきか恥と取るべきか。苦笑いをしつつも、先生の温かな心がじんわり沁みた。
4年間、先生にどれだけのご迷惑を掛け続けただろう。何度、口喧嘩しただろう。
反省と後悔を抱えつつも、でも生きるということはそういう“人との繋がり”なのだろうかと思う。

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コミュケーションこそが生きること、だ。
そのためにも食べるということは絶対に無視できない。
摂食障害に悩む方々に、ありきたりでも「自分を責めないで」と私は声を大にして伝えたい。

あなたが苦しんでいる現状は、生きるためにもがいている、その尊い人生のほんの一瞬のことなのだと。例え出口や光が見付からなくてもそれらが“無い”のではないのだから。
思い切って部屋から家から土地から、世界から自身の殻から脱け出てみて欲しい。
あなたほど希少価値の高い他の何かなど無い。
食べることに、けして罪悪感を持たないで…。もしも吐いても自分を責めないで…。
だけど…、少しでも良いから食べて、そして誰かの手を取って下さい。怖がらずに生きていて下さい。

そうして私にもその光と出口を照らして下さい。
私もあなたの指針になれるよう全力で食べ、生きていく。あなたの目に留まるよう強く輝く光になりたい。
そして私の人生を好転させてくださった先生、訪問看護師さん、親友たちの小さな光にもなれますように。

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さあ、今日は何を食べようかな。
あなたは昨日、何を食べたの?今日は何を食べようか。
もしも2人でゆっくり考えてみられたなら。
私はそれだけで幸せなんだ。
そう願って、この拙文を綴った。
この文章があなたの目に留まり、心を少しでも動かせたならこんなに光栄なことはない。