見た目にはコンプレックスがある方だ。
笑うと目立つ頬の肉が嫌。隙間のできない大根脚が嫌。どうして下っ腹にこんなに肉がついてるんだろう。太くなってきた二の腕も出したくない。毛が濃いから脱毛したい。腫れぼったくて化粧映えしない一重、毛穴の目立つ豚っ鼻も好きじゃなかった。何より体重、あと5キロ減らしたい。

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画面の向こう、雑誌の向こうの痩せた女の子ばかりに憧れた。
肉という無駄が無い顔、身体が美しいと思った。
歩いていてすれ違う、ほっそりとした身体の女の子をいつも目で追っていた。
なのによく食べる自分、お菓子を買ってしまう自分、運動が続かない自分が嫌いで、責めてばかりいた。
そんなんだから、私はいつだって自分に自信がなかった。恋愛なんて以ての外だった。

痩せるために、痩せたら着たい服を買った。
もちろん買った時はギリギリ着られないか、着られても不格好にしかならない。でもその服が着たかったから、頑張れた日々もあった。
着たかった服を着られた日は、頑張って痩せられた自分をやっと少しだけ認められた気がした。
でも鏡の中、着たかった服を着た自分は、やっぱり画面の向こうのキラキラした女の子たちより線が太くて、どこか不格好に思えてきて、…せっかく着たい服を着たのに、私はすごく嫌な気持ちになった。
着たかった服は、もう見たくない服になって、衣装箪笥の一番下に埋もれていった。

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そうやって雁字搦めだった時代から少し抜けて、今思うのは、私自身が気にしているより、周囲は私の身体つきを気にしていない、ということだ。
そんなことないよ、痩せてるよ。太ってないよ。可愛いよ。そういう言葉をお世辞にしか取れなかった頃があるし、今だって少し引き摺っている。でも、絶対にお世辞だという思い込みを勇気を出して取り払ってみたら、案外本心で渡された台詞だって、そこにあった。
そう信じられたから、やっと恋愛ができたし、自分を少しずつ曝け出せるようになった。

「着たい服」というのは呪いだ。
あっ素敵だな、と思った服が、自分に似合う、着られるとは限らない。
そういう自分にがっかりして、責めて、悲しい気持ちでうずくまる時がある。
だから私は割り切って、自分に似合う形の服を調べて、本当に似合うか試して、着るようにしている。そうやって選ぶから、買ったものがすごく好みな服じゃないことだってザラにある。でも憧れて着てみたかった服を着て、自分のコンプレックスを助長させて、下を向いて自分の身体を隠すように歩くよりずっと、ずっとマシだ。

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私は私自身をもっと愛してあげたい。
二十数年で形成された「憧れ」とはちょっと違うかもしれないけれど、今のままの、健康な自分の身体を愛したい。
私はそのままで、とっても可愛い。そう心から思える服が、今の私の「着たい服」だ。

自分を愛するために、自分が一番素敵に見えると自分で思える服を、私はいつだって探している。