「好き」という言葉はある時には単純である時には複雑だ。もう20代の私にもある程度の恋はしてきたつもりだ。それがどの程度の恋だったのかそんなことはもう今ではわからないけどあの仏みたいに優しい人も、あの普通の人には理解できない少し変だった人も、あの私のことが大好きだった人もみんな今どんな恋をしていますか。

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私は自分が好きになった人と付き合ったことはありません。でも、とてもありがたいことに私を好きになってくれてアプローチをしてくれる方がいました。また、相手が私のことを好いてくれてるなんて意識したことなかったけど告白してくださる方がいた過去もあります。

そんな中で私は「相手のことをもっと知りたいと思うのか」ということを考え返事をしていたように思います。もちろん相手には「まだあなたのことを好きなのかどうかわからないけどそれでもよかったら付き合ってほしい」などと今の自分の気持ちは伝えるようにしてきました。

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私は20代にして「今まで人を本気で好きになったことはあるのか」という疑問を持ち始めました。その答えは「NO」でした。私は情が人よりもない人なのか、冷たい人なのか、アロマンテイック(他人に対して恋愛感情を持たない、または非常に少ない人)なのか、アセクシャル(他人に対して性的欲求を感じない、あるいはほとんど感じない人)なのか。

答えは出ないまま今もそんな疑問が頭をよぎります。そもそも「好き」とはなんなのか、すごく哲学的になってしまいますがなにを持って好きなのか。それがよくわかりません。

友達の好き、家族の好き、恋愛の好き、色々ある中でそれらの好きの差がなんなのか。世の中、相手のことをちゃんと好きで恋愛をしている方々はみんなその好きの差をわかっているのか、また差を設けているのか(きっとそんなことを考えずに恋愛をしている人の方が多いのかも)。恋愛の好きが私にはまだ少し難しいです。

今まで縁があってお付き合いをしてきた相手に対していつも大切に思っていたし相手のことを知りたいと思うことの方がありました。

しかし、いつも「好き」に対しての自信がなく恋愛が負担になることもありました。相手の気持ちに私は答えられない。相手に申し訳ない。相手にはもっと良い人がいるはずだ。そうやって相手と本気で向き合ってこなかったから今の私がある気もします。

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昔見たドラマの中で「私が地獄に落ちても、愛してほしい」というような言葉があり、とても印象に残っています。

そんなこと私にはできない。愛を受ける側も与える側も。友達は好きを注ぎすぎても溢れない気がします。でも恋愛の好きはいつか好きが溢れてどこかへ流れてしまうようなそんな気がします。

それくらい恋愛は脆いものと無意識に思ってしまっているのかもしれません。恋愛相手の「ひとり」ではなく、たくさんいる友達の「ひとり」でいたい。恋愛の関係になると、どうしても「特別」という重みや期待が生まれてしまいます。

でも、私は誰かにとっての「特別な恋人」よりも、気負わずに接することができる「数ある友達のひとり」でいたいと思う。それは、関係が軽いということではありません。ただ、恋愛という枠に縛られずに、もっと自然で、誠実な関係でいたいだけ。恋愛のように終わりがくるかもしれない関係よりも、ずっと変わらずそばにいられる関係の方が、私には大切に思えます。

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この疑問を仲の良い友達に相談してもきっと解決はしないと思ってしまっていつも相談できずにいます。自分の恋愛を笑い話のように、私が最低に映るように話をしてしまいます。心の中ではもやもやした吹っ切れない雨雲のようにずっと私を追いかけてくるのに。

答えがない、答えが出ないものがあることは理解しています。大切なのは自分にとっての答えはなんなのか。それは見つけられたのか。だと思っています。

私自身がこの疑問に少し向き合った時、行き着く先はいつも「本気で恋してみたいな」です。もし本気で恋ができたら「好き」の答えに近づける気がするし、自分のなりの境界線が作られるかもしれないそんな希望を今は抱いています。

私が好きだった人、それは恋愛の好きではないかもしれないけどとても大切にしていたし、嬉しいことも悲しいことも共有して1番の理解者、心の拠り所になっていたらいいなって思っていたよ。今恋人はいますか、好きな人はいますか、これからはきっと幸せで気持ちが通じ合うそんな恋愛が待っていることを私は願っています。