「禁止」ではなく「センスないな」と言う言葉で両親に縛られてきた

今から20年以上前の、高校1年生の夏。それまで地味だった私は、髪を一部ピンクと紫にした。
新学期もその髪で通ったが、教師に咎められることはなかった。校則も制服もない中高一貫校に通っていたからだ。メイクも髪色も自由。みな思い思いのおしゃれを楽しんでいた。茶髪は当たり前で、中学生の頃から金髪やオレンジの髪色の子もいた。
その中で、私は地味だった。髪も染めていない。親にいい顔をされなかったからだ。
両親は教員で、目立つことを嫌う真面目な人たちだ。
特に父は厳格で、別の中高一貫校の教師をしていた。その学校には校則があり、そこから外れた格好は指導の対象となる。それに対し私の学校はそもそも校則がないので、どのような服装、髪、メイクをしようと問題ないはずだった。
親は個性を尊重する私の学校の教育方針を評価しつつも、自分の娘が派手な格好をするのは好まなかった。今になって思う親のいやらしいところは、決して「禁止」とは言わず、他の言葉やそれとない態度で縛ってきたことだ。
今でもはっきり覚えているのは、いつもはほんのりとした桜貝色とかだったマニキュアを、ニュアンスのある青色にした時だ。
父は私の爪を見ると、「センスないな」と言い放った。
今の私であれば、「お父さんの好みとは違っても、それでセンスがないとはならない、お父さんの思うセンスのよさと私の思うセンスのよさは違う」と、強く言い返すことができただろう。「はぁ?」くらい言うかもしれない。父だって特段センスがある訳でもなく、単に可もなく不可もない無難な格好をしているだけだ。
しかし当時の私は、父の言葉にショックを受け、傷ついた。
もちろん父の言ったことを全面的に受け入れた訳ではない。キラキラした派手な格好のクラスメイトは、センスがないどころか素敵だった。だが、自分なりのおしゃれをけなされて、浮ついた心はしぼみ、自分にはふさわしくないと思わされた。いっそ禁止された方が、反発できてまだよかったかもしれない。
このような両親からの否定的な言葉や態度の積み重ねによって、自尊心は削られていった。そして、せっかく規則が一切ない学校に通っていたにもかかわらず、派手なおしゃれは私の選択肢からなくなっていった。
だが高校1年生の夏休み、私の髪は茶色をすっとばして一部ピンクと紫になった。
1人で行ったイギリスでのホームステイ中のことだ。そこで仲良くなった台湾の子がエクステをしに美容院に行くと言うのでついて行った。見ているだけのつもりだったが、気付いたら私も色見本を指さしていた。
しかも茶髪や金髪ではなく、ピンクと淡い紫。親と物理的な距離があった夏休みだからこそできた、自分にしては突飛な行動だった。私のくせ毛の黒髪に2束の直毛のエクステはなじまず、珍妙だったと思うが、私は満足だった。痛快だった。
親からすれば「センスがない」奇抜な髪を、自分の意志で選んだのだ。
空港に迎えに来た親は、あきれたのか、特段何も言わなかった。もしかしたら、何か言われたけれど気にしなかったので覚えていないのかもしれない。
こうして私は、ある意味健全な思春期の高校生になれた。
エクステを付けたからといって、急に派手になった訳ではない。エクステもそのうち取れ、前とさほど変わらない見た目に戻った。
しかし心持ちは違った。しようと思えば、派手な髪にもなれるのだ。
それまでは、親が私にふさわしいと思う外見として黒髪を選んでいた、いや選ばされていた。それが、私自身が自分にふさわしい外見として、黒髪を主体的に選んでいると思えるようになった。これは私にとって大きな変化だった。
その後もずっと黒髪のままだったが、30代に入って、ベリーショートの襟足にピンクのインナーカラーを入れた。次に染めたのは、30代後半での白髪染めだ。今後もっともっと白髪が増えたら、髪全体をピンクと紫のグラデーションで染め上げようと思っている。
ファンキーな外見のおばあさんになるのが、今から楽しみだ。
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