もう2度と食べない、そう誓ってもなお止まらない辛みへの欲求

「おねーちゃん、カプサイシン追加する?」
「あ、はい!」
カプサイシンって調味料だったっけ?
考える前に、反射的にでた返事を後悔することになるとは微塵も思っていなかった、土曜の午後。
出てきたのはコチュジャンでもなくコチュカルでもない赤いそれ。
どう見ても日本の調味料ですらないそれ、もはや調味料ではなく成分ではあるのだが。
「このくらいでいいんですか?」
無知とは本当に恐ろしいもので、笑いながらオンニは言う。
「今日はそのくらいにしときな」
試しに舐めてみれば、水をいくら飲んでも、むしろ飲めば飲むほど舌の上の痛覚が全力で仕事をし続けるほどに私を刺激する。
とんでもない大馬鹿者とは私のことだ。
ぐつぐつとトゥッペギで揺れる大量の野菜たちが突然凶器に見え始める。
「さっむ」
辛さも限界を突破すると体は冷えていくのだと初めて知った。
「ありがとうね〜」
「ごちそうさまでした」
もう十分、そう思いながら2度と入れるかと心に誓った。
人が心に誓うことほど信用ならないものはない。
「今日はどうする?」
「少しだけ入れてください、あ、本当に少しだけ!」
恐怖より興味が勝つ、恐怖よりワクワクが勝つ。
もはや劇物に指定されてもおかしくないそれをまた求めてしまう。
そして帰る頃、2度と入れるかと心に誓った。
計10回は超える話だ。
痛いは嫌いだ。
転んで擦りむいた時にじんわりと広がっていく痛み、小指を角にぶつけた時の痛みなんて思い出したくもない。
痛いは嫌いだ、にも関わらず私は辛いというものを通して得る痛みを感じることをやめられない。
辛いものが痛いのは痛覚を刺激するからというのはもはや一般常識として広く知れ渡っている。
本来食事とはポジティブなものであり、痛みという人間にとってマイナスな状態になり得る辛みは避けるべきものなのだ、本能的には。
しかし韓国料理以外にも世界には辛味を売りにした料理が蔓延っている。
そして人間はそれにお金を払い、ビジネスとして成立しているという現状がある。
本来避けるべきものを人間が欲しているという矛盾。
私も含め、そこまでして辛いものを求めるのはなぜなのだろう。
私が辛いものに求めているもの、一つ目は謎の消費感だ。
私は辛いものを食べても汗をかくタイプではなく、ほんのり温まる程度だ。
それでも辛いものを食べたあと、不思議と体の毒素が抜けた気がする。
カロリーを取り入れたにも関わらず同程度以上消費した感覚は、食べることへの罪悪感を過度なまでに減少させている。
もう一つは、悪いことをしている感だ。
人はダメだと、悪いことだと言われることをしたくなる非常に非合理的な生き物だ。
プラスがあればマイナスがあるように、もしかするとこの世界のありとあらゆる法則に則った行為なのかもしれない。
普段体にいいことをしていることで溜まった悪いことへの衝動を、辛みの先にある痛みを通して上手く補っているのかもしれない。
非常に定性的な理由だが、私が辛いものを求める理由はこのようなものだ。
毎日欲するわけでないのが理由を妙にリアルにさせている。
体を温めるだけなら温かいものを食べたらいい。
汗をかきたいなら温かいものを食べたらいい。
悪いことをしたいなら苦いものを食べたらいい。
補完出来るものが多い中でそれでも私が、人間が辛いもの求めるのはきっとさらに奥深い理由が存在するのかもしれない。
そんなことを思いながら、罪悪感を減らした満足感と悪いことへの満足感を摂取する。
相変わらず舌は痛いし、なんなら胃は痛い。
もう2度と食べるか、そう思いながら土曜の余韻を引きずる日曜の午後である。
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