預金残高315円。口座アプリを開いて、肝が冷えた。
稼ぎがないのは自覚していたが、まさかここまでとは。

◎          ◎

原因をたどると、休職期間中の国民年金を二重払いしていたらしい。凡ミスである。
友人とのカフェ代も払えず、立て替えてもらった。給料日になってすぐ、PayPayで送金した。

別の日も、電車に乗ったあと、パスモの残高が足りないことに気づく。チャージしようにも、財布にも銀行口座にもお金がない。
このまま駅に着いたとしても、改札を抜けられない。考えをめぐらせた結果、メトロポイントの存在を思い出した。残高は約1600円分。それでなんとかチャージでき、事なきを得た。

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29歳貯金なしの現実は、悲惨だ。極貧とは言わないけれど、使えるのはその日暮らしのお金だけ。結婚したいが、婚活にかかる費用さえ惜しい。

いっそ、地元に戻ろうか。

わたしが育ったのは、群馬県前橋市にある、昭和56年築の木造住宅だった。
6畳一間に家族4人と、テレビや本棚、ダイニングテーブルまで詰め込まれていた。正直、かなり窮屈だ。バス・トイレも昭和式で、タイル張りの浴室には、給湯機能付きのバランス釜がある。和式トイレも残っていて、小さい頃はよく使っていた。

そんな環境で育ったせいか、「家」に対するコンプレックスが強い。
友達の住まいは、フローリングの洋風づくりで、ベッド付きの子ども部屋に、室内犬までいる。うらやましかった。劣等感でいっぱいだった。

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小学6年生のとき、父が病で急死した。母と兄、わたしだけの3人暮らしが始まったが、その時代がいちばん辛かった。
狭くて古びた家では、些細な喧嘩が絶えない。何がきっかけかは忘れたが、居間の土壁には、兄の手(もしくは足?)によって入れられた亀裂がある。いまも塞がってないままだ。

大学進学と同時に、東京に出た。何か目的があったわけではない。早く実家を離れたかった。苦い思い出とおさらばし、新しい生活を送ってみたかった。

卒業後は、IT系の企業に入社した。3年ほどで正社員を辞め、派遣社員をしながら、夜は飲食店でも働いた。
20代を通して悩んでいたのは、何事にも真剣になれないことだった。頑張れば頑張るほど、違和感ばかりが募っていく。
自分はここにいていいのか。このまま同じ場所にいて、後悔しないか。わたしは、人に誇れる毎日を送れているだろうか。

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いつだったか、久しぶりに実家に帰ったら、羽アリが大量発生していた。ここは、もはや人が住む家ではない。そう思った矢先、母が建売の新築を購入した。
「きれいなマイホームに住みたい」というのが、母の念願でもあった。

新しいリビングルームは、これまでと違う空気が流れている。ボロ屋でこじらせた家族関係を、精算してくれるかのような、風通しの良い家。この空間では、醜い争いごとは起こるまい。

窓の外には、グラウンド付きの公園があった。休日の朝、野球少年たちの元気な声が聞こえる。川沿いには、静かな散歩道が続いていた。
いいな。こんな生活もあるのか。

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故郷を離れたのは、「都心の豊かさ」を享受したいという下心からだった。
小学生のとき母と訪れた東京は、住み慣れた町とはまるで違っていた。見渡す限り、高層ビルばかり。山手線の原宿駅に停車したかと思えば、あっという間に渋谷駅に着く。有名なカフェやアパレルショップが、行き交う人々を囲んでいる。
東京という欲望に、まんまと魅せられた。

しかし、数年も暮らせば、その光景が当たり前になる。もうここで、果たしたい欲望はない。心底、そう思う。

それでも東京に残っているのは、ライターとして生きていきたいからだ。
新聞社や出版社、テレビ局。大手メディアの多くが、この大都会で根を張っている。取材先や編集者がすぐ近くにいるという距離感だけが、いまの自分を支えていた。

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地元に帰ろうか、帰るまいか。逡巡する。

「人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」

プラハ生まれの作家リルケが書いた、『マルテの手記』の冒頭だ。
青年詩人マルテは、近代都市パリに暮らしながら、常に孤独や不安にさいなまれている。作者リルケの生活が、そのまま反映されたものなのだろう。

「僕はパリに来ている。それを聞くと人々は喜んでくれるし、僕をうらやむ者だってあるに違いない。僕は決してそれを無理だと言わない。ここは大都会だ。奇妙な誘惑に満ちている。僕はある意味でそれらの誘いに押しつぶされているのを白状しなければならぬ」

都会にしがみつき、ライターを目指す自分と重なった。わたしはなぜここにいるのだろう。そして、なぜ離れられないのだろう。

マルテは言う。

「ああ、海が見たい」

わたしも。ちなみに、群馬に海はない。

引用文献:リルケ『マルテの手記』大山定一訳、(新潮文庫)新潮社、2022年