失くしたはずの英検受験票。数年後に思いもよらぬ場所で再会した

一人暮らしを始めて、丸3年経つが、未だにちゃんとしたホームシックを患ったことがない。帰りたいと泣いた日はあったけど、その後すぐに適応障害と診断されたし、先日一週間、母を家に泊めたが、三日目くらいで「いつ帰るんだろう」と思ってしまうくらいには一人暮らしが肌に合っている。
ただ一つ、無性に虚しくなる瞬間がある。モノを失くしたときだ。
私はよくモノを失くす。どれくらい酷いかと言うと、高校生のときに英検の面接用の受験票を失くして、未受験不合格になったくらいだ。筆記試験は受かっていたのに、あまりにも勿体無いし情けない。私の中の一つのネガティブ武勇伝である。
同居人がいれば「あれ、スマホない。ねぇ電話かけてみて」ができる。同居人がいれば「ねぇリモコンどこ?さっきテレビ見てたよね?」が言える。一人暮らしだとどうか。スマホがなければ血眼になって探すしかないし、リモコンがないのだって容疑者は私、ただ一人。そのなんと虚しいことか。
モノを探すとき、見つけやすくするには持論があって、それは探さないことだ。スマホは急を要するからしょうがない、一生懸命探してくれ。ただ、リモコンや爪切りなんかは正直今でなくてもいい。今テレビを見たい、今爪を切りたい、でも見たいテレビは後日サブスク配信されるし、爪はふと気が向いたから切りたいだけであって、数日前から切らなきゃな〜と思ってはいた。だからもうぜんぶ今でなくていい。
そういう場合は探さないほうがいい。失くしモノというのは、こちらが探せば探すほど上手に隠れる。「ふざけんなよ出てこいよ!」という怒号を聞いている。今出て行ったら「かぁ〜!こんなとこに隠れやがって!」と罵声を浴びせられることを知っている。だからこちらはしばらく探さずに、むしろ探していたことを忘れてしまうくらいのほうがいい。そうすると数日後、ふと足元に落ちていたりする。
上京して数年後、成人式のために実家に帰省した私は、"一人暮らしに持っていくほどではないけど捨てたくない思い出の箱"を漁った。そこには昔の記録(という名の黒歴史)を綴った日記や、学生時代にハマったマンガ、好きだった嵐のグッズなどがわんさか詰まっている。
その箱の中に覚えのない謎の茶封筒があって、中には中学生のときにもらった誕生日メッセージカードやみんなに配って書いてもらったプロフ帳が入っていた。今でも取っておかなければいけない書類はファイルにとりあえずひとまとめにしてしまうから、当時の私もそうだったのだろう。懐かしいな〜と思いつつ、一つ一つ見ていくと、なんとあのときの英検の面接用の受験票が入っていた。
青春真っ只中、英検の面接を控えているくせに、何を思ってこんなザ思い出!な茶封筒に受験票を入れたのか。すでに英検受験を思い出として処理しようとしたのだろうか。探さなくなって数年、故郷を離れてから見つかった受験票は全くもって価値のない紙切れとなってしまった。
恐らくだが、私は「捨てていない=持っている」と無意識に認識しているのだろう。だからそれをどこに仕舞おうが、捨てていないのだからどこかにはある、と根性論でモノの管理をしてしまう。ただもうそれは管理とは言えない、惰性だ。
一人暮らしをして、それなりに楽しくやっている反面、自分の惰性と毎日のように向き合っている。こういう自分を持つと、まったくもって暮らしづらいことこの上ない。
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