あの日、久しぶりに実家に帰った日の違和感は、私の成長だった

久しぶりに実家に帰った日、一番のホームであった筈の実家は、どことなくアウェイに感じた。
気づいたら実家を出て10年ほどが経っている。今でも実家は生まれ育った街に、昔と変わらない生まれ育った形のままだけど、離れてしばらく経つと、いつしか実家はたくさん気を遣う疲れる場所になっていた。
でも変わったのはきっと、実家じゃなくて、私の方。
一人暮らしを始めたての頃は、朝起きたらご飯ができていて、寝坊しても遅刻しない程度の時間には起こしてくれて、脱衣所で脱いだ服は畳まれて返ってきて、家に帰ると夏は涼しくて冬は暖かくて、床に落ちた髪の毛が気になったことなんてなかった生活の有り難みをとても感じていた。
そんな有り難みも、ないことが当たり前になり、自力でどうにかすることが習慣化すれば、大きな負荷ではなくなる。そしてこれは無くても生きていける、ここまでなら散らかっても許せるという妥協点も見つかっていく。
この妥協点が上手く見つかったあたりから、きっと実家がホームじゃ無くなって気を遣う場所になった。実家で一緒に住んでいた時は、自分がやることもやったこともなかったから何も感じなかったことも、やり方や状態が気になり始める。実家は親が見つけた親の妥協点で回っているから。
実家が嫌な場所なわけではない。家賃や生活費が抑えられてお金に余裕が出たり、ご飯が出てきて洗濯をしてもらえたり、全部お願いするだけじゃなくても、家事を分担できる大人が家にいることは非常に便利でとっても助かるから、実家に住むメリットもよくわかる。時々実家に1−2週間帰ることもあるが、正直一人暮らしよりも楽だと感じることもある。だから、実家に住み続けてる人の合理性も理解できるし、実家に住んでいることを悪くは思わない。実家と職場が近いとか、いい立地にある実家なら存分に活用するのもなしじゃない。
でもそれとは対照に、実家を出たことがなく、自力で生活をしたことがない人とは共同生活は送れないと切実に思う。
実家に住み続ける中では、身内の大人と共同生活を続ける限りは、家事の全容を知る可能性は低いし、一つ一つの家事にかかる労力や時間は想像しにくく、なんとなくで求めるレベルが高くなることが多いと感じるから。私自身が一人暮らしを始めて、自力での生活の中で家事や環境の質に折り合いをつけたのと同じように、一人暮らしをすることは、それができる唯一の機会だと思う。
実家での身内だけとの生活から、他人と生活をするまでの過程には、一度自力で生活をして、部屋が汚れるスピードや、日々の自炊は面倒だけど全てを外食で済ませたらとてつもないお金がかかることなどを、体感としてしっかり持つべきだと思う。
特に私たち世代の多くは、専業主婦の母親のもとで育った。だけど、共働きじゃないと生活が厳しい時代を生きている。
だからこそ、片親が専業主婦の条件下で保っていた環境を、アベレージの環境として記憶しながら共働きで生活を維持していくためには、どこかで妥協点が必要になってくると感じるから。お互いに相手を思いやるためにも、やっぱり、仕事をしながら家事をこなす、自力での生活の経験が必要じゃないかなと。
あの日、久しぶりに実家に帰った日の違和感は、私の成長だった気がする。
共働きが当たり前になってきている今の時代に必要な変化だった。
過去のホームステイやシェアハウスで大きなストレスを抱えていた私が、果たしてこの変化体感したからといって、同居への道が拓けたかはまた別の問題な気もするが……一般論的に考えるとそうだよね、と。
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