「つきましては、慰謝料をいただきます」。全力失踪も今では笑い話に

8月真夏の夕方、私は公園から逃げた。
公園からアパートまでは5分、足が地についているのかいないのか、分からないぐらい走って逃げた。アパートに着くと、汗が顔一面からぼわっと吹き出し、床にポタポタと落ちた。
そもそも離婚を言い出したのは、夫側から。話し合いを重ねた結果、元に戻るのは難しいと双方合意し、私は離婚届にサインを書いて夫に渡していた。しかし、いざとなると夫側が抵抗した。なかなか書いてくれないので、もう一度送ったら、「最後に話し合いがしたい。直接二人で会いたい」と返事があった。
早く「離婚」を済ませたい。二人で会うのは迷った。すでに相談している第三者からは二人で会うのは避けましょうと言われていた。でも、もしかしたら、離婚届にサインをして、渡してくれるかもしれない、だって最後にと言っていたし。
早く解決したい欲には勝てず、待ち合わせの公園に行った。残暑の暑さ。子どもたちが数人遊んでいる。もうなんの感情もない。夫に行動を制限され、夫に従い、夫を立ててきた。夫は仕事を辞めて、夫は私に依存し、大きな声を出して家の中を制圧した。
別居して一年。少しだけ感傷がわいた。一緒に旅行に行ったし、美味しいものを食べに行ったし、ね。でも全部私の支払いだったね。しかも、食べに行ったら、自分はさっさと早食いして、私のお皿の中をじっと見て「ねぇお腹いっぱいだろう、食べてあげるよ」とお皿を持っていってしまう。
いえ、私、完食したいのよ余裕で食べれるのよ。何度あっただろう。嫌な思い出、でも全部、今日で、おしまい。暑かったはずだが、いよいよ今日で終わりだと思ったら、体の芯が冷めてきて震えた。早くその緑の縁取りのある紙切れをください。そして明日、役所に持っていきたい。
夫がやってきた。久しぶりに会う夫は、マスクをしていて、目だけが異様にギラギラしていた。車の中でちょっと話ししようと言われ、嫌だなと思ったが渋々車の中に入る。埃っぽい暑苦しい車の中、元気?と言おうと思ったら間髪入れず宣言された。「最初に言っておくけれど、離婚はしない」。
夫はメモ帳を取り出した。「つきましては、あなたに婚姻費用を請求します。そして慰謝料をいただきます。そうしないと離婚しません。理由を申し上げると……」
いや、ちょっと待て。ちょっと言葉に出すのはあれなのだが、ものすごい額の慰謝料の請求額を言っている。
「あの、ちょっと待って。話にならないな」。意外と冷静に声がでて自分に驚いた。そして車のドアを派手に開けると走った。振り返らずに、ただ走った。もわっとする夏の空気で息苦しい。でも夕日が落ちかけていてオレンジ色だった。どうしてこんな人生なんだろう。何でこんな走って逃げる人生なんだろう。でも、悔しかったけれど、後悔はしてなかった。やってやるしかないじゃないか、夏の夕日に照らされて、走ったあの日に肝がすわった。
汗だくで逃げた夏は、あれから2年で笑い話になった。そして、毎年、ひとりで過ごす夏が楽しい。
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