星野道夫、と言う写真家の文章を、取り憑かれたように読み漁っていた時期がある。

教科書の文章にもしばし採用される、アラスカの写真家である。私は彼を、中学の頃に国語と英語の教科書で知り、頭の中にインプットされたその名前、テレビで特集されているのを見かけ、興味を持つようになった。

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たまたま図書館で見つけた最初の本が「アラスカ 光と風」という本だった。その一冊は、まさしく星野道夫本人が、最初にアラスカを知り、降り立ち、初めての冒険を始めてゆくエッセイだった。

若く瑞々しい感性が、美しくて恐ろしい大自然の中で得る経験全てが、読みながら思わず冷たい風を感じるほど、強烈に私に刺さった。それから図書館にある彼の著書は、ほぼ読み漁った。そしてその感動を、どうにかして誰かと共有したくて、高校2年の夏休みの読書感想文のテーマとして、8月の1ヶ月間をまるまる構想と添削を繰り返して書き上げた。

選択著作は「アラスカ 光と風」ではあるが、読んできた数々の本から、私が感じたいくつかのポイントを取り上げた。アラスカと原住民であるイヌイットとの出会い、険しい環境で逞しく生きる野生動物、オーロラ、広大な氷河…。そして同時に様々な問題を知った。人種差別やアルコールやドラッグによる中毒、環境破壊と絶滅しゆく動物たち。目を瞑って、アラスカに思いを馳せると、そこにはたくさんの人々や動物達が、険しい環境の中で強かに生きている。日本の安全な家屋の中で過ごす私たちにとっては、非現実な世界が、現実の世界として存在している。その全てを、色んな人と共有したかった。

夏休みが明けてしばらく経って、朝の全体朝礼で急に名前を呼ばれ、何のことか分からず壇上に上がると、渡されたのは『学内読書感想文コンクール』の最優秀賞の表彰状だった。自分の名前が書かれており、副賞で五千円分の図書カードをもらった。知らぬ間に優勝していた。先生たち全員の評価を得て、全校生徒に配られる冊子に文章が載り、生まれて初めて、自分の文章が評価された。今でも忘れられない素晴らしい経験だった。

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17歳の夏を思い返している私は、もう少しで31歳になる。あれから何を成し遂げただろう。浪人して第一志望の大学に入り、留学し、体調を崩し、就職した。ここ3年間で祖父母は全員が旅立ってゆき、やっと安定した職についたと思ったのに、結局その環境にも適応できずに半年間の休職を許され、その最中に父に髄膜腫という脳腫瘍が見つかり、2度の開頭手術が行われた。私の体調もずいぶん落ち着いてきた頃に復職したけれど、2ヶ月目にしてまた調子を崩し、医師から「出来るなら1週間ほど休んで」と提言された。10年は働きたいと思いながら入社したけれど、結局3年持たず、復帰してから1年は頑張りたいと思っていたのに、3ヶ月ももたなかった。明日は上司から電話がかかってくるので、退職の意思を告げるつもりでいる。

狂気じみた暑さは、どんどん私の体力を蝕んでいる。ここ数日間は、目覚めていることが苦痛で、薬に頼って出来る限り眠りの中にいた。一体、何のために生きているのか。過去の後悔に囚われ、未来への不安に押し潰されそうになっている。それでも目の前に広がる世界の煌めきに気がつくたびに、私は思い知らされる。今を生きろ、と。取り戻せない過去も、防ぎようのない未来も、何もかもが無意味だ。ようやく私は、また一歩踏み出せるのかもしれない。安定という名の失望に縛られることなく、私はまた漕ぎ出さなければいけない。

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群青色の空に入道雲が美しく盛り上がり、蝉が命の限り泣き喚いている。この季節が、私の背中を押してくれたのかもしれない。もう一度、漕ぎ出すチャンスを、与えてくれた。