私には夢がある。作家になるという夢だ。
でも子供の頃の私の夢は、国際連合の職員になることだった。

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子供の頃の夢と、大人になって抱いた夢の違いはいったい何だろうか。
私の子供の頃の夢は、憧れる姿だった。カッコいいと思った対象、大人になってから自分で世界を変え得るような立場。私なら目の前の理不尽をやっつけられる、もっとうまくできる、そんな幼い万能感からやってきた夢だった。

私が国連に入りたいと思ったのは7歳の時である。たまたま国連機関の募金活動に関わることになり、そこで初めて、たった100円で買える薬の存在と、その薬で救える命を知った。私は当時同い年かそれより小さい子供を、既に助けられる手段、お小遣いという力を持っていたのだ。小さな私でも誰かの助けになれる。それは7歳の私にとって、自分の世界がグッと軋んで急速に広げられたような、途方もない衝撃だった。

私も国連の職員になれば、もっと多くの人たちの助けになれる。いや、私なら、もっと効率的に多くを助けられるのではないか?すばらしい万能感とともに「国連職員」という夢は幼い私に根付いた。そしてそれから10年以上、私の中に深々と根を張り続けることになった。

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一方で大人になって抱いた夢は、一種の現実逃避であり、自分の「好き」の再構築だと認識している。大人になった私は、夢を「人生で長い時間を費やしたいくらい好きなこと」と定義するようになった。

夢の定義と中身が変わったのは、社会で働くことを実感してからだ。社会人になった私は、理想と現実に挟まれてひたすらに悩んでいた。学生時代は、働くことはもっと劇的で意義があることだと思っていた。けれどいざ社会人になってみると、降りかかってきたこと、どうでもいいことをコツコツ片づけていくのが私の仕事だった。必死こいて手を動かすうち、気が付けば今日が終わっている。

私の意思で、こうしたいと声を上げて、何か変えられることは滅多にない。そもそも自分で生きていくのに必死だ。どんどん視野が狭くなっていくのを感じて焦りが募った。

幼き日のすばらしい夢を、少し形は違えど、実現したつもりだった。だからもっと満足して、楽しく生きていけると思っていた。けれど現実の私は、忙殺されて疲弊して、なぜ働くのかすらわからなくなっていた。そうして働くことが現実になって初めて、私は夢に対して「楽しいか」「ずっと続けていきたいか」という視点を持つようになった。

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私は物語が好きだ。もう覚えていないくらい幼いころから絵本や小説が好きで、隙間時間に貪るように読んでいた。寝ることより、食べることより、読むことが私の第一欲求だった。大人になった今でも、電車の中や休日は物語の世界に没入している。

そして読むことと同じくらい、私は何かを書くのも得意だった。得意だったし、何かを自分手で紡ぎ出すのは、のめり込めるほど楽しかった。明確に、他者より得意だと言えることだった。

読むこと、書くことなら、私は一生涯、何があっても楽しく取り組める。そう思った。それから私の夢は「人生で長い時間を費やしたいくらい好きなこと」になり、作家になった。
もちろん簡単なことじゃない。挑んだ先には保証も何もない。でも、作家になるためにする努力は、私にとっては努力じゃない。それで十分だと思っている。

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夢にはいろんな定義がある。最初から「好き」を夢にする人だって沢山いるし、私が考えるもの以外の考え方だってあっていい。もちろん、夢をもたなくたって全然いい。
それでもなぜ私が夢をもつかというと、夢が私の生きる理由になるからだ。
生きているから夢があるのではなく、夢があるから私は生きていこうと思える。
だから私は、大人になっても夢をもっている。