中学1年生の夏休み、徹夜しても書けなかった読書感想文

忘れもしない、中学1年生の夏休み最終日。
私の目の前には何度も消しゴムで消した跡のある白紙の原稿用紙が広がっていた。家族も寝静まって私が生み出す音だけが響くリビングで、私は課題図書の読書感想文と格闘していた。この宿題が残っているのはわかっていたし、課題図書はすでに読み終わっており、3冊読んだうち、感動し思うところもたくさんあった1冊を自分で選んだ。読書感想文に何度も取り組んだが、全く進まず、ついに最終日に泣くような気持ちで寝る時間を削ってでも向き合わざるを得なくなったのだ。
小学生の頃は、自由研究が夏休みギリギリになって焦ることは経験したが、それでも宿題を遅れて出したことなんてなかった。ドリル系なら夏休みの前半に終わらせてしまうタイプだ。本も大好きで沢山読む方だと思う。それに小学校の頃、作文に困ったことは一度もなかった。それなのに、なぜ…。
始めをあらすじで埋めてやっと2枚目、そろそろ自分の感想を入れなければと思うところで自分でも不思議に思うくらい進まず、時計の針はカチッ、カチッと音を立てて進んでいく。私の感じた感動を感想として書くことができない。もうあと寝られても4時間だ、というところで良い文章は諦めて適当に書き進めることにした。「よかった」「感動した」など薄っぺらい言葉でいい、とにかく書き進めなければ。宿題を終わらせなければ。やっと4行書いたか、と思ったところで読み返して愕然とした。それまでに書いた文章とほぼ同じで、流石にまた消しゴムで消さざるを得なかった。それからも何度も本を開いては閉じ、自分の思いを巡らせシャーペンを握るがやっぱり進まない。焦る気持ちと、本を読んだ感動を何度も行ったり来たりして、めちゃくちゃな感情になっていた。空が白んできた頃、ついに私は諦めた。
ほぼ初めての徹夜状態だったが、それなりに真面目に学生生活を送っていた私に「宿題をしていない」という事実は重くのしかかり、不思議とその日は眠くなかった。宿題をしれっと提出せずに、何くわぬ顔で一日を過ごした後、私はひっそりと職員室を訪れた。国語の先生を呼び出して、「読書感想文が書けませんでした、すみません」と言うと、優しい先生は「わかりました。もう数日あげるから書いてみて」と穏やかに言った。私は救いを求めるような気持ちで職員室に向かったのだが、書く猶予をもらって拍子抜けした。確かに、最終日に本格的に取り組んだのも事実なので、私は一旦持ち帰り、もう一度気持ちにゆとりを持てばできるものかと宿題に取り組んだ。でも、やはり問題は時間ではなく、書き進められないと言う結果は同じだった。
翌日、「やっぱり読書感想文が書けません」と一言言った後、先生は少しだけ驚いた顔をした。やっぱりこんな生徒いないよな、どうしてできないんだろう、と情けない気持ちで溢れかえる前に、先生は「わかりました。じゃあちょっとそこで待ってて下さい」とやはり優しい穏やかな口調で一旦職員室に戻り、外の席で腰を据えて宿題に付き合ってもらうことになった。「読書感想文はそんな難しいものじゃないの。技術だから」そう言って、先生は私の言葉を聞きながら、ここにこういう文を書くといった読書感想文の原型を淡々と作って下さった。プリントに書いてある「書き方」ではどうしても形にできなかった私は、感謝で胸をいっぱいにしつつ帰宅し、翌日読書感想文を提出した。
出来上がった読書感想文のことは全く覚えていない。でもあのリビングの静寂で書きたいのに書けない時間は強烈に覚えている。「産みの苦しみ」を味わった時間。夏にできなかったことだけど、夏だからできたこと。
今思えば、あの時は気持ちばかりが先行していたのだろう。技術があれば文書は書ける、思いを表すには修練が必要、ということなのだと思う。
今でも産みの苦しみを悲痛なほど感じる私だが、書くことは好きで時々こうしてこっそりと、思いを文章にしているのだ。
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