それは唐突な思いつきだった。

◎          ◎

もともと、スポーツとは縁遠い人間。継続してやっていた競技も、部活をやっていた経験もない。
若い頃はそれでなんとも思わなかった。ただ、25歳を過ぎたあたりから、食べたものをきちんと代謝が消化してくれなくなり始めた。要するに、食べた量がそのまま脂肪として蓄えられる身体になってしまったのだ。

これではまずい

そうは思っていたけど、前述の通り、これと言って打ち込んでいたものがない人間だ。突然妙案を思いつくわけもなく、悶々としているうちにも体重は増え続ける。あぁ、これではだめだ。何か策を講じねば。

◎          ◎

とある土曜日の朝、たまたま朝早く目が覚めた。
いつもならまだ、2〜3時間は心地よい二度寝を味わうものだが、その日はどうも再び眠りに落ちることができなかった。
ぽっかりと生まれた朝の空白に戸惑う。さぁ、どうしよう。

ふと、ある人の話を思い出した。

ランニングをしている友人。始めるまでが億劫だけど走り終えると身体が軽くなると言っていた。そうだ、走るだけなら何も道具もいらないし、手軽にできそうじゃないか。
私は思いついてから行動に移すまでの時間がすごく短いタイプだ。だからこの日は、一度もやったことがないのに、突然ランニングをしてみようと思い立った。

もう一つ理由はある。
毎日身につけているスマートウォッチ。愛用している文字盤はランニングアプリに紐づけられているものらしく、ふとした拍子に触れると、ランニングのプランが小さな画面に表示される仕様があった。
それを見て気になっていた。このまま走り出せたら、どんなに気持ちいいだろうと。

◎          ◎

当然、ランニングウエアもシューズも持っていないので、あり合わせの服と使い古したスニーカーで外に出た。
とりあえずそれらしく準備運動をして、今度はきちんと意思を持って、スマートウォッチの画面をタップしてみる。
「ようこそ、さぁ、始めましょう」
イヤホンから若い女性のトレーナーが明るく声をかけてくれた。

おずおずと歩き始める。いきなりトップスピードで走るのは良くないと聞いた。聞き齧った知識を頼りに、初めは少し歩いて、足を動かすのに慣れたら少し弾みをつけて、それに慣れたら少しスピードを上げて。

そうしている間にもトレーナーは細かく指示を出してくれた。
呼吸に集中すること、どこか違和感を感じるところはないか観察すること。
律儀にそれを聞きながら、実行し、距離を伸ばす。
「あなたが最初の一歩を踏み出してくれたことが、とても嬉しいです」
一歩進む毎に褒められる。それに少し気恥ずかしさを覚えながらも、気分は良かった。

歩き慣れた道をいつもよりも早いスピードで駆け抜けると、思いの外爽快だった。
徒歩では少し遠いと思うようなところが、目まぐるしく視界に入っては消えていく。
20分と短い時間なのに、存外遠くまで走れたことが驚きだった。

◎          ◎

「おめでとう!やり切りましたね!あなたはもう、立派なアスリートです!」
耳元でそんな祝福が聞こえる。大袈裟だと思いながらも、私の中に確かにプライドが芽吹いている気がする。私は、走れた。やり切ることができた。そう思えることは嬉しかった。

走り終えると信じられないくらいの汗をかいていた。
着ていたTシャツは、一度プールに浸かったかと思うほどびしょびしょで、普段は汗をかかない腕や耳裏までもがじんわりと湿っていた。
じっとりとした汗の感触は気持ち悪いけど、嫌味な感じではなかった。
あぁ、これが運動すると気持ちいいってことなのか。
ややしばらく生きてきて、初めて知った瞬間だった。

◎          ◎

それから約半年。

ときどき休むこともあるけど、ランニングは私の趣味になった。
今度はあり合わせのものじゃなく、きちんとお気に入りのウエアとシューズも少しずつ揃えて、日々走ることを楽しんでいる。
ダイエットの効果はこれからだけど、それでもいい。走ることそのものが今、楽しいから。