あの夏、交流会で芽生えたタイ留学への決意が私の人生を変えてくれた

私がこれまでの人生で一番大きな決断をしたのは、高校2年生の夏。それは、留学生の交流会に参加した夏。留学したいと強く思った夏。留学することを決断した夏。
私は高校3年生の時に、タイへ留学した。元々、タイに行きたかった訳でもないし、留学を考えていた訳でも無かった。私が通っていた地元の高校は、よくある自称進学校。卒業生の多くは、地元の国公立を目指す。私もその1人だった。
特別なにか夢もなく、やりたいことも大学で学びたいことも分からないまま、何となく過ごす日々。学校の授業やプログラムに従って、学年の平均以下にはならないように努める。
正直、高校生活は私にとっての学校生活で一番、苦痛な日々だった。心から仲がいいと思える友人もおらず、いつも一緒にいるメンバーは奇数で、余るのは私。とても居心地がいいものでは無かった。別に、いじめられているとかじゃなく、何となくひとり疎外感を感じる日々に嫌気がさしていた。その頃、父は単身赴任で、家には私と母の2人。仲が悪い訳じゃないけれど、絶賛反抗期の娘と母2人だけの空間に、いつも何かしら苛立ちが漂っていた。
大学受験を意識して英語教室に通い始めた高校2年。
夏休みが近づいてきた頃に、英語の先生から思いがけない誘いを受けた。それが、夏休みにとある島で開催される、留学団体の宿泊交流イベントだった。普段は人見知りで、あまり社交的とは言えない私でも、その時ばかりは不安よりもワクワクが勝っていた。
その年の夏休みの一大イベントになった。同じ英語教室のまだ会ったことのない子と、東京駅で合流して一緒に参加することになった。高校生活に嫌気がさしていた私にとっては、 知らない人と会ったり、知らない場所へ行くことは刺激的だった。
1人で東京駅に行くのですら私には初めての経験だった(東京駅からの帰りは、そのせいで目の前の高速バスに乗りすごすことになるなんて思いもしなかったけど)。
無事に合流して、最終集合場所へ向かう。何十人と同世代の子が集まった。田舎の私よりもずっとキラキラした、都会の子も多かった。段々と国籍もさまざまになり、島へのフェリーに乗り込んだ。
実際に参加してみると、やっぱり人見知りの私には結構大変だった。知らない人しかいない中で、色々とレクレーションが用意されている。別に何かを成し遂げなくちゃいけないような合宿ではないのだけど、ちゃんとメンバーとして、溶け込まなきゃ、存在を意義を見出さなきゃと気を張って、緊張して、不安だったのも事実。
でもみんなの目的は、留学で。日本に留学してきている人、留学から帰ってきた人、これから留学に行く予定の人、行こうか迷っている人、そういった人たちとの交流だった。
もちろん正直苦手な性格、服装の人とかもいたけど、それ以上に、こうした留学をした人・する人・したい人というのは、分け隔てないというか、みんなとできるだけ平等に仲良く、理解し合おう、交流しようという雰囲気の人が多かったと思う。だから、緊張も不安もあっても、そこまで居心地は悪く無かったのだと思う。
特に新しいことに挑戦せず、不満をもちながら何となく日々を過ごして、何となく国公立大学に行くんだろうなと思っていた日々。そんな日々を送っていた私にとって、その交流会は、 まさに夏の日差しのように眩しく輝いて見えた。
他に参加している人のように、具体的に自分ごととして留学を考えて参加した訳では無かった。国際交流というものに興味はあったけど、同世代でこんなにも海外へ意欲的に行った人、行こうとしてる人を目の当たりにすることもなかった。私の通っていた高校でも、他の学校にもよくあるように、2週間程度のオーストリアへの短期交換留学はあったけど、長期なんてなくて、身近で行っている人もいなかったから。
結局、イベントに参加してみて、完全に感化されてしまった私は、留学へ行く気まんまんになって帰ってきた。イベントへの参加を後押ししてくれた母も、もちろん賛成し、1人心配だからと弱々しく反対するそぶりを見せる父を横目に、留学の話はトントン拍子に進んだ。そして半年ほどで、私はタイに旅立った。
「夏」「島」「留学」「交流」という魅力的なワードが散りばめられた場所に、飛び込んで良かった。参加していなければ、きっと留学なんて夢物語だった。あまり社交的でもない私がそんな場所に飛び込めたのは、夏だったからだろうか。
夏の浮き足だったような雰囲気が、私をそうさせたのかもしれない。
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