倒産に奪われた留学の機会。17年間積み重ねて、辿り着いたフランス

そのメールが届いたのは、大学4年生の夏。前期の試験がすべて終わり、世界がゆっくりと休暇の色に染まりはじめた頃だった。
「お支払いが確認できません。ご確認いただけますか?」
短いフランス語の文だった。けれど意味は、嫌というほど鮮明だった。
──支払いがされていない。そんなはずはない。あれほど急かされて、祖母に頼み、その日のうちに銀行から送金したというのに。
自室のノートパソコンで、エージェントの名前を検索する。目に飛び込んできたのは、1ページ目の一番上に、その会社の名前とともに書かれた「倒産」という二文字だった。
椅子の背もたれに体を預けたまま、しばらく動けなかった。指先が妙に冷えていた。冷房はつけていなかったのに。
当時は妹と二人で東京に暮らしていて、「ねえ」と声をかけてみたけれど、返事はない。きっと出かけているのだろう。
ベッドに寝転び、天井を眺めてた。泣こうとして、叫ぼうとして、彼氏に電話をしようとして、結局、何もしないことにした。
ふと、祖母の顔が浮かんだ。「ほんとに行きたいなら、いいよ」と言ってくれた、あのときの声。すべてを信じて、すべてを託してくれた人だった。
起き上がって、机の上のアイスコーヒーを飲んだ。ぬるく、どこか泥のような味がする。
それは数ヶ月前、あのエージェントのオフィスで出されたコーヒーと、同じ味だった。
エージェントの事務所には、観葉植物がいくつか置かれていた。どれも少し元気がなかった。蛍光灯の光が、どこか不自然な色をしていたのを覚えている担当の女性は、丁寧だったけれど、どこか急いでいた。
「パリに行きたいんですね。では、こちらのプログラムが人気ですよ。……ただ、為替が明日変動する可能性があるので、もし今日中にお申し込みとご入金をいただければ、今のレートで確定できます」
今ならわかる。自信のないサービスは、「今だけ」「本日限り」という言葉で不安を煽る。入会金無料、今月だけ、先着順──その類のセールストークに、だまされてはいけない。
でも当時の私は、目の前に並んだパンフレットに載っていたパリの空やエッフェル塔、セーヌ川の写真に目を奪われていた。思考は止まり、「行きたい」という感情だけがふくらんでいた。
──ただ、問題は、お金だった。
私はすでに、大学二年と三年でも短期留学をしていた。お金はどちらも両親が出してくれて、アルバイトなんてしたことがなかった。
生活費が足りなければ、親に送金してもらう日々。自分の力で何かを得ようとしたことは、一度もなかった。
だから四年生になって、留学の話をしたとき両親からは、こう言われていた。
「もう出せない。二回も行ったんだから、もういいでしょう」
その顔には、言葉にならない期待が浮かんでいた。
「これだけお金をかけたからには、そろそろ一流企業に就職してくれ」と。
でも、嫌だった。だからこうして、ひとまずエージェントに話を聞きに来ているのだ。
私はエージェントの女性に一言ことわりを入れて、祖母に電話をした。
「おばあちゃん、お願いがあるの」
しばらく沈黙が続いたあと、祖母は「……いくらいるの?」と訊いた。あとは、すべてが一瞬で進んだ。
倒産が分かったあの日、私は「債権者説明会」というものに出向いた。天井の低い会議室、まぶしい蛍光灯、誰とも目が合わない空間。スーツ姿の男性が、小さな声で言った。
「返金は……難しいですね」
大学四年の私は、どこかでまだ「もしかしたら」と思っていた。けれど、現実は思ったより簡単に「NO」を突きつけてくる。静かに、冷たく、そして決定的に。
留学先の語学学校からは、「半額だけ払っていただければ、受け入れ可能です」という慈悲深いメールが届いた。けれど、もう誰にも頼めなかった。すべては終わったのだ……。
慌てて就活をして、「海外に行けそう」という理由だけでメガバンクに就職を決めた。周囲の同期たちは、自信に満ちていた。この銀行で働けるのが楽しくて仕方ないって感じだ。
でも、私の心には、未完の風景だけがずっと残っていた。
入行してしばらく、SNSには留学を果たした友人たちの投稿が並んでいた。パリのカフェ、アルプスの山、ボルドーのワイン畑…….。
私はひとつずつ、静かにミュートしていった。小さな復讐のように。でも、それはただ、目を背けたかっただけだ。直視すると、泣いてしまいそうだったから。
私は心の中でひとつだけ誓った。「絶対に、いつかフランスに行く」と。
そして17年後、私はフランスに住んでいる。
フランス人と結婚したわけでも、ワーキングホリデーを使ったわけでもない。メガバンクで「ご栄転」したわけでもない。理由は割愛するが、地道に積み上げてきた。
もしあのとき、留学できていたら。たぶん私は満足して、別の人生を歩んでいたかもしれない。
でも、できなかった。だから、ずっと心のどこかにフランスが棲みついていた。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。パリのコーヒーは、まずいことで有名だ。実際、今日の一杯もやっぱりまずかった。
でも、悪くないのかもしれない。だって、少なくとも、コーヒーを飲むという目的は果たせているのだから。
それに、私は今、ここにいる。17年前の「行けなかった」の先で、ようやく「来ることができた」のだから。
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