国連職員に憧れた私は違う道を選んだ。それでもあの時夢を持ったから

もしも7歳の私が夢をもたなければ、私の人生はガラリと違うものになっていただろう。
その夢をもった時、私は恥ずかしがりやの女の子だった。
背は人より大きかったし、頭もいい方だった。運動神経も悪くなかった。だからクラスではそこそこ目立っていたかもしれない。けれど私は人前で何かしゃべるのが、とてつもなく嫌いだった。手を上げて先生の問いに答える、みんなの前で発表する、何かに選ばれて注目されるーーそれらが全て苦手だった。
人前に立つと考えるだけで心臓がバクバクして、みんなと目が合うと真っ赤になった。涙目になって、うまく喋れなかった。それがまたひどく恥ずかしくて、嫌になった。
なのに私はうっかり「国連職員」に憧れてしまったのである。
国連職員。テレビで大写しにされながら全世界に向かって発言したり、難民や貧困層を支援したりする、アレだ。
今から考えるとガバガバな認識だと思う。でもテレビで見る限り、少なくとも海外で働きたいのなら、私の恥ずかしがりは国連職員になるには致命的な欠点のように思えた。なので私は一念発起した。脱・人前嫌い、堂々と意見を言える人間になろう計画を開始したのだ。
10歳の時、クラスで4人しかなれない応援団に立候補した。炎天下の中、ポンポンを振り回して声を枯らして、真っ黒こげになった。何とか全うしたら、少し自信がついた気がした。
15歳の時は、生徒会委員に立候補した。そして全校生徒の前での立候補演説は、最下位という大失敗に終わった。あれより恥ずかしかった記憶はない。でも、私は手を挙げたのだ。
17歳の時は、風紀委員会の副委員長になった。ゴリゴリ企画して、委員たちを巻き込んだ。この時くらいから人前に立っても声が震えなくなってきた。
けれど同じころ、私の夢は転機を迎えた。イングリッシュ・サマーキャンプで、私と同じ夢を語る少女に出会ったのだ。
彼女は人前に立つのがすばらしく上手だった。聞き手を巻き込む才能も笑顔にする才能も、伸び伸びと自己主張をする才能もあった。明確に、私の上位互換だと思った。
そして同じころ、だんだん私は夢に疑問をもつようになっていた。私が憧れていた公的機関の行いは、対処療法に見えてきていた。根本から何かを変えないといけないのではないか?なぜやらないのか?…公的機関だと、各国との兼ね合いで取り組めないのでは?
ならば民間からのアプローチの方が、ビジネスでお金を循環させて自助的に解決する方が、根本的な解決になるかもしれない。そう思った私は、大学でビジネスを学ぶ選択をした。
大学では国際ボランティアを運営するサークルに入った。「社会問題に取り組めます」という謳い文句に惹かれたのだ。けれど入ってみたら私みたいな人は居なくて、ただの「就活意識高い系」の集まりだった。ガッカリした私は1年でそのサークルを去って、一匹狼として大学生活を送った。
そして今、社会人の私は、振り返ってみると、夢の延長線上で働いていると思う。
国連職員という夢をもったことで、私の人生はとてつもない影響を受けた。もしあの時、違う夢をもったのなら、私は全く違う人生を生きてきたことだろう。
大人になって違う夢を胸に抱く今、人生をかけて挑戦してみると決めた今、私はふとそう思う。
今となると、遠回りをしたのかもしれない。けれど後悔はない。国連職員を志した私のお陰で、今の私はペロッと余裕綽々で人前に立つことができる。この成長がもたらしてくれた自信は、紛れもない私の宝物だった。
そしてきっとまたこれから、違う夢をもった今が、私の青春2幕目の始まりだ。
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