恋が残した痛みはもう私を苦しめない。今は幸せを支える土台になった

人生の中で、ふいに過去と再会してしまう瞬間がある。忘れたはずの記憶が、思いがけない形で姿を現し、こちらの心を試すように問いかけてくる。
先日、スマホである言葉を検索したときのことだった。結果の中に、すでに消したはずのLINEトークがひょっこりと出てきたのだ。表示された相手の名前は「友達ではない人」となっている。おそらく、私はその人をブロックし、トーク履歴を削除したのだろう。当時の自分がどれほど必死にその存在を遠ざけようとしたのかが、その表示ひとつからも伝わってきた。
それでも、消したはずの記録は完全には消えていなかった。ほんの数行の文章が、スクリーンの中に残っていた。
その画面を見た瞬間、胸の奥に重苦しい感覚が広がった。息が詰まるような不快感。心のどこかで忘れたかったのに、実際には忘れていなかったことを突きつけられた気がした。
最後に目に飛び込んできたのは、あの人の言葉だった。
「わがままに耐えられる人に出会えるといいですね」
淡々と突き放すような一文。そこに漂う冷たさは、当時の私の心を深く傷つけたものだった。
——つらいな。いや、つらかったのだ。
その言葉を見た瞬間、当時の出来事が走馬灯のように蘇ってきた。必死に相手を追いかけて、理解してもらおうとして、我慢を重ねていた自分。好きという気持ちにすがりつきながら、どんどん心がすり減っていくのを見て見ぬふりをしていた。あのときの私は、愛することと自分を犠牲にすることを混同していたのだと思う。
今振り返れば、突き進むべき恋ではなかったと断言できる。ほんの8行程度のトークを見ただけで、それがどれほど不健全な関係だったのかが鮮明に思い出されたのだから。
あの恋は、私を強くもろくした。相手の気分や言葉に一喜一憂し、自分の価値を他人の評価に委ねていた。その中で「愛されたい」という気持ちは募るのに、「安心」や「大切にされている」という感覚は一度も得られなかった。
なぜあのとき、私はそれを恋だと信じていたのだろう。 今ならはっきりわかる。私は自分を大切にしていなかったのだ。
けれど、不思議なことに、そのLINEを目にした“今の私”は、とても穏やかな恋愛をしていた。大切にされ、尊重され、安心して心を委ねられる人と一緒にいる。その関係の中では、わがままを責められることもない。むしろ、互いの違いを受け入れ合う余裕がある。
だからこそ思った。
——あのつらい恋があったからこそ、今の幸せにたどり着けたのだ、と。
もしあの苦しい経験がなかったら、私はきっと「本当に自分を大切にしてくれる人」との違いに気づけなかっただろう。人を好きになるとはどういうことか、愛されるとはどういう感覚か、あのときの失敗が教えてくれた。
苦しい経験は、できることなら避けたい。あの頃の私も必死に逃げ出したかったし、涙で眠れぬ夜も数えきれないほどあった。けれど、その痛みは私にとって必要な通過点だったのだと思う。あの痛みがあったからこそ、「幸せな恋愛」を心から実感できる。
夜、スマホを閉じながら、私は小さく微笑んだ。
そして心の中で、過去の自分にそっと声をかけた。
「よく頑張ったね。あのとき傷ついたことも、ちゃんと意味があったよ。あなたが泣いてくれたから、今の私は笑えているんだよ」
そう振り返りながら、私は静かに目を閉じた。
過去の恋が残した痛みは、もう私を苦しめない。むしろ今では、幸せを支える土台になっている。
つらい恋の先には、想像もしなかった新しい自分と、新しい愛が待っていたのだ。
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