黒は似合わないと言われても。好きな服を着る喜びを教えてくれた友達

私のパーソナルカラーは1stイエベ春、2ndブルべ夏。似合うのは鮮やかで明るい色。パステルカラーやクリーム色などだ。しかしパーソナルカラーという概念が流行する少し前の頃、私はかっこいい系統の格好に憧れていて、どうしても全身ブラックコーデに挑戦がしたかった。
今でこそ定期的に茶髪に染めている私だが、当時は地毛の黒髪に、ブラウス、フレアスカート、ベルト、太もも丈のレースカーディガン、靴下、ローファー…すべてブラックで揃えた。ネイルも、セルフでブラックに。鏡に映る自分を見て、思わず口角が上がる。今日の私は最高にイケてるぞ!そんな思いで大学へ向かった。
教室へ入ると、当時仲良くしていた友達が皆『かっこいい!』『すごい似合うよ!』と褒めてくれた。少しやりすぎかな?と思っていた自分もいただけに、予想外のコメントに驚いたがとても嬉しかった。面白いことに、女の子の友達からはかなりの称賛をもらったが、男の子の友達からはわかりやすく不評だった。
それでも落ち込まず、内心(うるさいなあ。好きな服着させてよ)と思えたのは、良いと思ったものを素直に良いと伝えてくれる友達に囲まれていたからだと思う。今でも感謝が尽きない。
それから2,3年後、パーソナルカラーという概念が世間に浸透してきて、自分に似合う色重視で服やコスメ、小物を揃えるようになった。黒は私にとって得意ではない色(顔色が比較的暗く見えてしまう色)だと発覚し、極力避けるようになってしまった。
全身ブラックコーデなど、しようとも思わなくなってしまった。けれど、当時のコーデを組んでいる瞬間の楽しさ、鏡に映った自分の満足げな表情、褒めてくれた友達。その言葉に素直に嬉しさを感じたこと。すべて鮮明に覚えていて、いまでも『着たい服を着よう』という私の価値観の根底となっている。
思えば、大学生の頃はひたすら好きな服を着た。全身ブラックコーデをはじめ、好きなバンドTシャツ、好きな映画をイメージしたコーデ。その度に、友達の誰か一人は必ず素敵だと伝えてくれて、次はどんなコーデをしようかな、と日々の楽しみに繋がっていた。
改めていま考えてみると、友達は純粋に『似合う』から褒めてくれていたのはもちろんあると思うが、同時に『好きな服を着て幸せそうな私』を心から認め、好きでいてくれたのだとも思う。
きっと、その人が自分に満足できているかは、表情、言動の選択、身に着けるものである程度はわかるのかもしれない。
近年のルッキズムはさらに強くなり、美容関連の情報や概念は溢れかえっているように思う。そして少なくとも高コンテキスト文化、周りに合わせるのが美徳とされる環境で育った人は、好きなものを素直に好きと言いあぐねてしまうかもしれない。自分よりも、相手に合わせて今日着る服を選ぶかもしれない。
心よりも、頭で良いと思ったものを身に着けるかもしれない。過去の自分含め、そんな人に伝えたいことは、月並みな言葉だが『人は案外他人を気にしていない』だ。
だがこれは突き詰めれば、『気にしてくれる人だけに刺さればそれでいい』ということでもあると思う。自分の『好き』を封じ込めて、当たり障りのない恰好をし、100人によしとされるよりも、自分の『好き』を素直に表現して99人に見向きもされずとも1人に素敵!と言われる方が幸せだな、と感じる毎日だ。
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