ああ、もうダメだ。私はひとりぼっちで、この広い広いオーストラリアの大地の土になるんだ。
自分に向かって駆けてくる白馬を見上げながら、私は祈った。体は痛みで動かない。
30分前に新鮮な人参を、君に食べさせてあげたのは私なんだぞ。踏むな、踏むな。私を踏むなよ。

「馬は人を踏んだりしない。馬を信じろ!!」

遠くでオーストラリア人のおじさんが叫んでいる。嘘だ。私は知っている。歴史上、馬に踏まれて死んだ人間は多い。

◎          ◎

なぜ私は今、白馬に踏まれようとしているのか。話は30分前に遡る。

十三歳の私は夏休み期間中、オーストラリアでホームステイをすることになった。渡豪3日目に広い草原での乗馬体験。栗毛の馬が多く並ぶ中、数少ない白馬に乗れる事になった。嬉しい。童話の世界、夢の白馬に私が乗って、この広い草原を闊歩するなんて。さあ、新鮮な人参を召し上がれ。

私は美しいタテガミを撫でた。
それが、白馬の気に障ったのだろう。一説に、馬は人を選ぶとか。
他の栗毛の馬達は順次歩き出した。白馬だけ動かない。動け、動け。いや、恐れ入ります、動いて頂けないでしょうか……せいやっ、ハイホー!
見かねた牧場のおじさんが、手綱をえいっと引っ張ったので、白馬は嫌々歩き始めた。

「おじさん、あのね。足がアブミに微妙に届いてない気がする」

おじさんはチラッと私の足元を見てニコッとした。

「大丈夫大丈夫、ノープロブレム」

アブミとはもっと、足の裏で踏ん張れるものではないのか。念の為、太ももで馬の体を挟んで進んだ。

草原の頂上への途上、狭く曲がりくねった急坂で、足にちゃんと乗っかっていなかったアブミが外れた。その瞬間、白馬が前足を高く掲げのけぞったが、私は太ももで挟んでいたので落馬しなかった。目の中に星がある少女漫画の知識が、役に立って本当に良かった。

白馬は全速で走り始めた。コースを外れた広い草原へ。

(私、知ってる。この前海外ドラマで見たやつだ。いつかは私も振り落とされる。頭から落ちたら記憶喪失。ムリムリ。記憶喪失は学生生活のゲームオーバー!!) 

最後まで乗りこなして馬と仲良くなる世界線もあるけど、私は今、コイツが嫌いだ。
意を決して自分から飛び降りた(この判断が正しいことは帰国後知った)。飛び降り方も少女漫画で習った通り、横回転で頭を保護しながら落ちに行った。地面の圧は凄い。受け身を取れなかったから、衝撃で呼吸ができない。目だけ動かし白馬を見る。私から去っていく小さなお尻が可愛い。と、ここでまさかの白馬がUターン。

◎          ◎

私にめがけて真っ直ぐに、走ってくるよ、なんでだよ!踏むのか。最後に踏み潰しに来たのか!?私なにかしましたか。人参をあげただけなのに!!

遠くで牧場のおじさんが叫んでいる。

「馬は人を踏まない!!」

白馬は踏んでいった。私の左の手の甲を。いや、頭とか背中とか膝とか踏まないでくれてありがとう。私を後ろ足で蹴り上げないでくれて、ありがとう。

「でも馬ぁ!踏んでったじゃないかーい!!」

牧場のおじさんが私の手の甲を見た。そしてにっこり笑って一言。

「ダイジョーブ、折れてない。ノープロブレム、ラッキーガール!」

オーストラリア滞在中、ずっと左手が痛かった。馬に踏まれたから、当然だ。ホストファミリーは心配して、毎日湿布を貼ってくれた。みんなの優しさが、今も私を支えている。

帰国して三年後、私は左の小指を骨折し、病院でレントゲンを撮った。医者にこう言われた。

「手の甲に骨折の跡があるね。治ってるみたいだけど、珍しい折れ方したんだね」

その日を境に、オーストラリアに行く予定の人がいると、私はこう声をかけている。

「馬に対して偉そうにしちゃダメだ。オーストラリアで、白馬には絶対に乗るな」と。