恋愛は期待の形のひとつ。ひとに失望したくないから、恋愛をしたくない

ボランティア先の交流会で同じテーブルだったひとが、「女って論理的じゃないから嫌だ」と笑いながら話していて絶望した。あっさり同意していた人たちにも。
その人たちに対して恋愛感情があったわけではなく、同じ団体で仕事をしてきたというだけだ。わたしが名指しされたのではなく、その人たちも酔っていて、それでも無性に腹が立った。あけすけに言えば、その場で舌を噛み切るか飲んでいたビールをぶち撒けるくらいのことをしたかった。実際のわたしは残っていたぬるいビールを飲み干して次を頼むことしかできなかったのだけれど。
仕事相手としては嫌いではない。むしろ、その団体では新人の部類であるわたしにたくさんのことを丁寧に教えてくれる優しい人たちだ。それでもわたしはその発言を忘れられない。わたしが人生を懸けようとしている職業は、男社会的なノリがいまだに根強く、上司には圧倒的に男性が多いし、女性に対する「いわゆる強い女なんでしょう」みたいな揶揄もある。それでいて論理性がかなり必要とされるアカデミックな側面をもつ職業で、野暮なことを言うなら社会的地位も高い。わたしは論理的でかっこよくて仕事のデキる女性たちをたくさん知っているし、そういう人たちのようになりたいと思っている。憧れの姿を見つめながら、女が論理的でないという考え方こそ論理的でないと、それにすら気が付かない人たちなのだと、きっとどこかで彼らを見下して接していく。
それなりに広く交友関係を持っているからか、そういう偏見に接する機会も多ければ、人の愚痴やしんどい話を聴くことも多い。そして、後者はわたしにとっては大きなストレスにならない。他人の話だと割り切ってしまえる無神経さと鈍感さは確かにわたしの中にある。仕事と割り切って誰かの話を聴き続けてきたこの3、4年間で獲得したスキルであり、弊害でもあるような気がする。自分でも不思議だけれど、絶望できそうな話を大量に聴いておいて、それでもまだ誰かに期待している自分がいる。割り切っているからこそなのかもしれない。
一方で、現実に自分の身に起きたことにはこんなにも腹を立て、絶望し、昇華のために見下すことすら厭わない。こんなに膨大なエネルギーを消費して醜く振る舞う羽目になるのなら、何にも期待しなければ良いと思う。期待と失望は基本的にセットだから、勝手に他人に期待しておいてまったく失望しないなんて都合の良いことは早々起きない。わたしの中での踏み越えたくないラインと他者のそれは違う。わたしもきっと誰かに期待され、失望されている。そういうことを考えてもまだ期待をしてしまう。
恋愛は期待の形のひとつだと思う。自分に誰かを愛することを期待し、相手からも愛されることを期待する。わたしはひとに失望したくないから、恋愛をしたくない。その言葉の身勝手さを、少なからず理解しているつもりだ。
でも、たくさんのひとと出会い交流を持つ毎日の中で、数えきれないくらい期待しては失望している今のわたしは、恋愛ほどの深さで向き合った人に失望できるエネルギーを持ち合わせていない。いつか恋愛をしたくなるときがきたら、それは期待も失望もぜんぶ引き受けたくなるくらいの好きを見つけたということなのだろう。
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