夢に盲目的だった私が気づいたのは、叶った先に待っていた現実だった

夢がありますかと聞かれると、迷いなくありますと答える自分で生きてきた。
夢はわたしの心の中にあるひとつの天秤だった。進学先から明日着るワンピースまで、何かと何かの選択肢で迷ったときには、どちらの選択肢の方が夢を叶えることに貢献ができますか? とその天秤に問えばいい。そうすればいつだって迷わなかった。その天秤に従った結果、友達と縁を切ったこともあれば、自分自身を追い詰めて身体や精神を壊したこともあった。そうして悲しんだり苦しんだりすることはあったけれど、後悔したことはなかった。何せ自分にとって一体何が大事なのかが、いつだってはっきり決まっていたからだ。夢を叶えることが大事だった。そのためなら何一つ惜しまなかった。
恋は盲目ならぬ、夢は盲目。わたしは夢というその天秤を、あまりに信頼しすぎていた。それは夢という言葉がどこか、世界の全部を作り替えてしまうような魔法のような、そういう甘い響きを持つからだと思う。
自分の世界をがらりと変える魔法のようなものを信じてしまいたくなってしまうときがある。物語の中だって、そんな魔法たちで満ちている。迎えに来てくれる白馬の王子様、ある日突然使えるようになった必殺技、恋が叶うこと。お金持ちになること。上京すること、結婚すること。「いつか、これさえ叶えば、そうすればわたしの世界は生まれかわる」と思えるような物語で世界は満ちていて、それを信じてしまえば強くいられる。わたしも苦しい目にあったとき、いつか夢が叶えば、そうすれば幸せになれる、どこかでそう言い聞かせて奥歯を噛み締めて生きてきた。
わたしの夢のひとつは、研究者になることだった。去年なんとか博士号を取得し、関東の大学で研究職として働き始めた。
就職した先でふと、自分の弱さに直面することがあった。それは英語が話せないとか知識が足りないとか、そういう力不足のときもあれば、過去のトラウマを乗り越えられないといった心の脆さのときもあった。単純な寂しさのときもあった。
そういうとき、わたしはこれまでよりもずっと重たく落ち込んだ。特に寂しい気持ちはきつかった。わたしにはもう、「いつか、夢さえ叶えば大丈夫」の魔法は存在しないのだ。夢が叶ってもなおわたしは寂しい。そこにあるそんな自分の弱さを、一人で噛み締めるしかない。
夢が叶ったあとには、現実が続く。特に新しいわたしに生まれ変わるわけでもなければ、突然必殺技が使えるようになる訳でもない。ただこれまでと同じ自分のまま、ときに脆い心で、叶った先の人生を歩んでいかないといけないのだ。夢そのものがすぐさまわたしを幸せにしてくれるわけじゃないという至極当たり前のことに、わたしはようやく気が付いたのだった。
わたしにはずっと夢があって、それが誇らしかったし、夢を持って生きてきたことを後悔はしていない。夢のおかげで見られた景色だってあったし、それはとても素晴らしいものだった。
でも夢という言葉は、ときに「叶ったら世界の全部が変わる魔法」みたいな、危なっかしいほどの輝かしさを持つ。夢と言う天秤に全幅の信頼を置いていたわたしは、今思えば危なっかしい。何よりわたしが持っていたその天秤も魔法も、もう壊れてしまったのだ。
だから夢が叶ってわたしが始めたことは、心の中の天秤の作り直しだった。自分にとって何が大事で、何が大事じゃないか。何にお金と時間を使うか。自分の価値観を一つ一つ見直して、天秤を再構築するのだ。天秤のルールがシンプルなことは、これまで通り変わらない。わたしはどうすれば、幸せに生きられますか。
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