幼稚園生の頃は、ケーキ屋さんになりたいと思ったその次の日にはお花屋さんになりたくて、そしてまた次の日にはミニモニ。にもなりたかったし、またまたその次の日には幼稚園の先生になりたかった。同じ組にはセーラームーンになりたい子もいたし、一つ下の年少クラスの男の子はサメになりたいと言っていた。

なりたかったはずなのに。いつからか私たちは、なりたいものがわからなくなった。たまになりたいものを話す時には「生まれ変わったら」なんて枕言葉をつけるようになって。現実をしっかり生きてしまった私たちは、何を夢見て生きよう。

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新卒で働いていたときにはすでに、なりたいものはなかった。めまぐるしい日々。いつまで経ってもギリギリぐだぐだな一人暮らし。仕事を通じて色々なことを学んだけれど、それらを実践をする余裕も技量も当時の自分にはなかった。

そんな日々で同業他社のベテランさんが発した一言が今も忘れられない。

「生きがいなんてなくたって、目の前のことに一生懸命でいることが生きるってことじゃないんですかね」

人生に無理に意味を見出さなくてもいいこと、そしてただただ生きることの尊さを感じて、私はこの言葉を思い出すと未だに目頭が熱くなる。何も目指せなくなったからといって、私たちはつまらなくなったわけではないのだ。

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少し話が逸れてしまうのだけれど、数年前から、一年ごとに100個のやりたいことリストを作成している。きっかけはSNSで見かけて面白そうだったから。ただ、あのとき見かけた誰かのリストに比べて、私のリストは全く立派じゃない。夢や目標というにはほど遠い、思いつきに近いようなものばかりだ。

たとえば「バッグを買い替える」とか「◯◯駅に行ってみる」とか、時折「でっかい紗々が食べたい」とか無謀な願いも混じっていて、どれも短絡的な目先のことばかり。しかしこれらは、今この瞬間に立ちかえる時の、ひとつの指標になりうる気がしている。

多分日常生活は意外と、先々のことを見据えて過ごしすぎているのだと思う。「明日のためにこれをしておかなくちゃ」とか「念のため先にやっておこう」とか。それ自体はもちろん素晴らしいことなのだけれど、たまに、「私は今、目の前のことに一生懸命いられているだろうか」と自信がなくなることがある。

その自信をちょっと取り戻すのが、私にとってのやりたいことリスト。やりたいことを書いた過去の私が今に気持ちを向けさせてくれるような、今の選択をするときの一助になっている感覚だ。なりたいものがなくても、そのときにやりたいことには素直でありたいなと思う。

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もちろん今どうするかなんてそのときの気分次第だし、そもそも振り返ると達成できたやりたいことも多くない。大層な夢も生きがいと呼べるほど懸けている趣味もそんなにない。それでも、夢未満を積み重なることで、「今」が伸びやかに、未来に続いていく気がしている。